眼が疲れてきたので、いったんノートを閉じた。隣に目をやると、呆然と空を見上げている男。よく見ると、口元には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
「楽しいか?」
 その横顔に問い掛けてみる。
「…………。」
 けれど、反応がない。
「不二?」
 名前を呼ぶと、不二はゆっくりと視線を空から俺に移した。
「………何が?」
 現実感の無い声。大方、空想にでもふけっていたのだろう。
 それにしても。聴こえているなら、さっさと返事をよこせばいいものを。しかも、疑問を疑問で返してくるとは。
「俺といて、楽しいか?」
 多少の不満は抱きつつも、俺は先ほどの言葉に少々補足をして繰り返した。不二が、不思議そうに俺を見つめる。
 短い沈黙の後、奴は笑顔になると、ううん、と首を振った。立ち上がり、大きく伸びをする。
「つまんない。」
 笑顔で、言った。
 そんな言葉が返ってくるとは思わなかった(自信過剰かと思われるかもしれないが、俺のデータでは不二が「楽しい」と答える確率は90パーセントだった)ので、俺はそれに対してどう返していいのか解からくなってしまった。まあ、不二に限って言えば、俺のデータが通じないのはいつもの事だけど。
「でも…」
 困惑気味の俺の前髪を手で掻き揚げると、不二は額に唇を落とした。見上げる俺に、悪戯っぽい笑みを見せる。
「こういう雰囲気、好きだよ」
 そう言って俺の頭を優しく撫でると、再びベンチに座りなおした。肩に寄り掛かり、空を見上げる。どうしていいか解からずにいると、不二は俺の左手を取り、自分の肩に回した。一瞬、周囲の視線を気にしてしまった自分を恥じた。別に俺は自分たちの関係を否定しているわけではない。
「乾。データが通じなくて困ってるでしょ?」
 俺の左手を遊びながら、不二は俺の首筋辺りに言った。喋る時に肩から伝わってくる振動と首筋にかかる吐息が、少しくすぐったい。
 そんな事はない、と言おうとして、やめた。こいつに誤魔化しは効かない。それは不二が俺のことをよく理解してくれているからでは在るが、可愛くないと思う部分でも在る。まあ、そういうのが別に『悪い』というわけではないのだが。
「まあ、お前にデータが通じないのはいつもの事だからな。いい勉強になるよ」
「その割に、進歩はないみたいだけどね」
 クスリと笑みを俺に投げると、不二は視線を空に戻した。つられて、俺も空を見上げる。五月晴れ。雲ひとつない空を意識して見上げるのは久しぶりだな、と思った。
「空」
 不意に、不二が言った。
「空、見てたんだ。乾がデータ整理してる間、ずっと」
 話がその先もあるような気がして暫く黙っていたが、不二が横目で俺を見ているのが解かって、そうか、とだけ答えた。不二は、うん、と小さく頷いた。
「綺麗な空だな」
「………うん。」
 俺の言葉に不二は頷いたが、その顔は、少し、雲っていた。
「不二?」
「でも、東京の空って、本当の空じゃないよね」
「?」
 何を言っているのか解からなかった。俺が不思議そうに不二を見つめると、不二は空に視線を預けたままで続けた。
「『智恵子抄』って、乾、知らない?」
「……授業でやった気がする」
「そっか。乾、理系だもんね。本とかはあんまり興味ないか」
 少し残念そうに不二が言うので、俺はかなり頑張って記憶の糸を手繰ってみた。
「……高村光太郎?」
「そう。」
 ようやく記憶の片隅から出て来た名前に、不二が嬉しそうに頷いた。何となく、安堵の溜息。
「その『智恵子抄』の中でもね、詠われてるんだ。"東京には空が無い"ってね。……僕が、写真を撮るのが趣味なのは、知ってるよね?」
 随分話が飛ぶもんだなと思いながらも、今度は間髪入れずに頷いた。肩の辺りから小さな微笑いが聴こえた。
「それでね。僕、こう見えても、結構山に登ったりとかするんだ。部活の合間を縫ってね」
 ……それは、知っている。すでに調査済みだ。今までの予定も、この先の予定も。だからといって、一緒に山に登る気はしないが。
「ああ、たまに手塚とも一緒に出掛けるかな」
 ………それも、知っている。やはり俺も、一緒に山に登った方がいいのだろうか?だが、三人だと割り切れない。山の知識のない(例え今から身につけたとしても、経験の差は否めない)俺と不二と手塚だと、不二と手塚に俺という2対1の組み合わせになる確率は73パーセント。不二は何よりも自分の世界を壊される事を嫌うから、俺が無理に話しに加わる事も出来ない。となると、確立はもっと上がる…か?
「なに考えてるの?」
「べ、別に」
 不二が顔を覗き込んできたので、俺は咄嗟にそう答えてしまった。
「嘘吐き。」
 案の定、笑いを含んだ声が返ってきた。けれど、それ以上、不二は追及しようとしなかった。その代わり、僕に関する乾のデータってあてにならないんだよね、と呟いた。
 確かに、そうなんだが…。などと考えていると、急に肩の辺りが軽くなった。隣を見ると、不二は俺から身体を離し、座ったままの状態で伸びをしていた。そのまま、ベンチの背にもたれる。
「自然の中で見る空ってね、もっと深い蒼をしてるんだ。深海にいるような錯覚にさえ襲われる…」
 そこで言葉を止め、不二は眼を瞑った。穏やかなその表情は、多分その『深海のような空』を思い出しているのだろう。一度だけ、不二の家に行ったときに写真で見たことがある。確かにそれは、今オレの目の前に広がっている空とは比べものにならないくらい綺麗だった。
「いつか、一緒に行きたいね。乾と。二人きりで」
 いつの間にか、不二はベンチの背から身体を離し、覗き込むようにして俺を見つめていた。優しい笑みが浮かんでいる。
「……気が向いたらな」
 俺は赤くなった顔を隠す為に、眼鏡を指で直すフリをした。反対側に置いてあるノートを取り、開く。
「気が向いたらね。」
 含んだ響きで言うと、不二は俺の肩に寄りかかってきた。不二がノートをずれないように抑えたので、俺は左手を不二の左肩に回した。五月の生暖かい風が不二の髪をさらい、俺の左手に微かに触れる。静かな時間がゆっくりと流れていく。
 確かに、一般的に言う『楽しい』ではない。けれど、居心地の良い空間である事には変わりはない。
 不図、横目で隣を見ると、不二があどけない表情で寝息をたてはじめていた。





はいっ。またまたでてきましたね。『智恵子抄』
『あどけない話』です。
いや〜、空って言ったら、今のところこれしか思い浮かばなくて…なんたって古本屋さん20円で手に入れた本ですから(笑)
まあ、他に空で思い浮かぶのは大黒摩季の『空』くらいですけれどね。
アニプリでのキモかった乾くんに捧げたいと思います(爆)



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