「…さぁて、どーすっかなぁ」
桃城はそれを手にしたまま立ち尽くしていた。インターフォンを押そうと指を伸ばしては、寸での所で止まってしまう。
自分の情けなさに、溜息が出る。
「いくらなんでも、いきなりってのは、そりゃぁないっしょ」
手の中にある四角い包みを宙に翳し、また溜息を吐いた。
それは、昨日。金曜の出来事。
部活の帰りに桃城はいつものように自転車にまたがり、イヤフォンを取り出した。再生ボタンを押し、ペダルを踏み込む。
「!?」
いつもとは違う負荷と、背中に感じた温もりに驚き、桃城は振り返った。そこには、笑顔の人。
「……不二、せんぱい」
「後ろ、乗せてって」
「………?」
頭に流れている音楽の所為で、不二の声が聞こえない。桃城は慌ててイヤフォンを外した。
「なんすか?」
「いいから、ネ」
訊き返す桃城に、不二はそれ以上言わず。ただ背中に抱きついてきた。
「………わかりましたよ」
笑顔で見つめる不二に溜息を吐くと、桃城は不二の手からバッグを受け取り、かごに放り込んだ。
「案外優しいんだよね、桃は。」
「はぁ?」
「んーん。何でもない」
紅くなっている耳を見止めると、不二はクスリと微笑った。聞こえなかったフリをしていたが、桃城には不二の言葉がハッキリと聞こえていたのだ。
「そーだ」
「な、なんすか?」
突然、首に腕を回されて、桃城は思わず背筋を伸ばしてしまった。緊張で固まっている桃城の反応を愉しむかのように不二の手が動く。と、不二はそれを掴むと後ろから桃城の顔を覗き込んだ。
「…不二先輩?」
「いい?」
「………別に、構わないっすけど」
「うん」
桃城の首から下がっていたイヤフォンをとると、不二は自分の耳にそれを当てた。
「………へぇ」
暫く眼を瞑って音楽に耳を済ませてたあと、ありがと、と呟くと不二は桃城の耳にそれを戻した。桃城は停止ボタンを押すと、自転車を走らせ始める。
「不二先輩って、J-POPとかに興味ありましたっけ?」
「あんまり聴かないかな。一応CDは聴けるけど、LPを聴くほうが多いし」
「……えるぴぃ?」
「レコード、だよ」
「ああ。なるほど」
苦笑しながら答える不二に、桃城は頷きながら溜息をついた。
LPを知らないなんて、カッコ悪い。趣味が合わないってのも致命傷だ。
「いい声だったね」
「え?」
スピードが乗ってきた所為で、不二の声が良く聞き取れない。
「いい声だったね。さっきの曲。誰なのかは…判んないけど」
不二は身体を伸ばすと、桃城の耳元でいった。その事に、一瞬、桃城のハンドルがぐらつく。不二は小さく微笑った。
「あれ、オレ一押しのアーティストなんすよ。アルバム曲だから判んなかったかもしんないっすけど、多分、不二先輩も知ってる人だと思いますよ」
なんだったら、まだ聴きます?と桃城は不二に向かってイヤフォンを差し出した。けれど、不二は受け取らない。
「でも、悪いよ」
「いいっすよ。別に。オレ、このアーティストの歌は全部覚えてますから」
「いや、そうじゃなくって」
言いかけて、不二は桃城を抱きしめている腕に力を込めた。耳を当てると、自転車を漕いでいる所為か、桃城の速まった鼓動が聴こえてくる。
「せっかく桃と一緒にいるのに、一人の世界に入りたくないんだよ」
「…っのわぁ」
不二の呟きが聞こえてしまった桃城は、ハンドル操作を過って側溝にはまってしまった。
そして、今日。
「どーっすかなぁ…」
桃城は昨日のお詫びを込めて、不二が好きだといったアーティストのCDを買ってきたのだ。特別な日でもないのにプレゼントなんて、とはここにつくまで考えもしなかった。そのうえ、事前連絡もなしにいきなりのお宅訪問。考えるよりも体が先に動く。桃城は今日ほど自分の性格を後悔した。
しかし。いつまでもこうして玄関先でうろうろしているわけにもいかない。ここままでは、完璧に変質者。
「こんなところでジタバタしてもしょうがねぇ!」
喝を入れるように自分の両頬を叩くと、桃城は姿勢を正した。ジャケットにCDをしまい、ボタンを押す。
「………桃?」
ワンコールもせずに、桃城の耳に不二の声が届いた。
「ちわっす。不二先輩」
電話越しなのにも関わらず、自然と桃城の体がお辞儀をする。
……玄関を目の前にして電話なんて。情けねぇな、情けねぇよ。
「いきなり電話なんかしちゃってすみません。あの、ですね…」
「「なーにやってるの、そんなところで」」
「……え?」
耳元と上空から同時に声が聞こえ、桃城は辺りを見回した。
「「上だよ」」
不二の声に導かれ、桃城が2、3歩下がる。そこには、電話を片手に今にも笑い出しそうな顔をしている不二がいた。
「うわーっ、不二先輩の部屋って綺麗っすね」
玄関で渡すだけ、会えれば良し、と思っていたのに。予想外の展開に、桃城は思いっきり大きな声を上げていた。
「そっか。桃は僕の家に来るの初めてだもんね」
物珍しげに不二の部屋を物色する桃城に苦笑すると、不二はベッドへと腰を下ろした。重みで軋むベッド。桃城の動きが、一瞬、止まる。
「まあ、座りなよ」
「え?」
「その椅子。僕が寛ぐ時に座ってるんだ。そこでも良いし。それとも、僕の隣に座る?」
意味深な笑み。桃城は咳払いをすると、じゃあ…と呟き、椅子の方に座った。不二が理由の読めない溜息を吐く。
「ああ、そうだ。で。何しに来たの?」
「えーっと、こ、これ…」
不二の言葉に思い出したように桃城が自分のジャケットのポケットを漁った。それを取り出し、不二に手渡す。
「……何?これ」
不二は桃城から受け渡された包みを、不思議そうに眺めた。桃城に促され、封を切る。
「これ、もしかして…」
「あ、はい。昨日の、不二先輩が良いっていったアーティストのCDっす。その、先輩にプレゼントしようと思って」
「プレゼント?……今日、何の日だっけ」
「いえ、その…昨日のお詫びに」
「ああ。このこと?」
クスリと微笑うと、不二は自分の左手を桃城に見せた。手のひらに貼られているのは、姉が貼ったのだろうと思われる可愛らしい絆創膏。
「その…。スミマセンでした」
うな垂れる桃城に不二は溜息を吐くと、立ち上がり、その頭を優しく撫でた。
「不二先輩?」
「優しいんだね、桃は」
「……っ」
触れられる事に異常なくらいに緊張している桃城を、優しく抱きしめる。
「大丈夫だよ。かすり傷だし、左手だしね」
桃城の前で手をひらひらさせて、微笑う。けれど、桃城の顔は曇るばかりで。
「ホント、スミマセンでした」
不二は苦笑した。
「桃のせいじゃないよ。後ろに乗せてって言ったのは僕だし。それに…」
言いかけると、不二は手を伸ばし、桃城の左手首を掴んだ。
「痛っ」
「ごめんね、僕の所為で」
多少ではあるが、腫れ上がっている左手。不二は笑顔を消すと、桃城を見つめた。
「いいっすよ。オレも左手…」
「でも、片手じゃ、ジャックナイフは難しいよね」
その手を自分の下へと引き寄せると、不二は唇を落とした。
「……ふ、じ、先輩…?」
「早く治るように。オマジナイだよ」
悪戯っぽく微笑うと、不二は桃城から身体を離した。
「じゃあ、一緒にCDでも聴こうか」
桃城から貰ったCDをデッキにセットし、再生ボタンを押す。流れてきたのは、この夏の陽射しにそぐわないR&B。それでも、不二はその声に満足気に微笑った。
「ありがとう。やっぱり、いい声だね。気に入ったよ。……そうだ。ねぇ。まだ、時間はあるかい?」
「え、ええ。はい。このあとの予定は何もないんで」
「じゃあ、さ。桃の好きなアーティストの話、色々聞かせてよ」
「は、はいっ」
振り返った不二に、弾かれたように返事をすると桃城は微笑った。
「……やっと、微笑ってくれたね」
「へ?」
「ううん。何でもないよ」
笑顔で返すと、不二はベッドに腰を下ろした。不二の言葉は呟きだったけれど、桃城の耳にはちゃんと届いていた。
心臓の音が煩くて。音楽が、聴こえない。
桃城は残った感触と熱を確認するように、自分の左手首にそっと触れた。