「好きだよ。」
一瞬。夢か何かかと思った。
いつも冷たい不二が、オレに笑顔を向け、告白しているのだから。
「ねぇ、手塚は?」
オレの手をとり、微笑う。
別に。不二のことは嫌いではない。というか、オレは不二に嫌われていると思っていた。なので、好きだといわれたことは素直に嬉しい。深い意味ではなく。
だから。
「僕のこと、好き?」
と、訊かれたとき。
「嫌いではない」
と、正直に答えた。
「そ。良かった」
不二のことだから何かしてくるかもしれないと、少々身構えてしまったが。予想に反して、不二は安堵の溜息を吐くと、手を離し、さっさと部室を出て行ってしまった。
音も無く閉じられたドア。
静寂を、取り戻した部室。
『好きだよ』
不二の声が、頭の中でこだまする。
夢では、ない。確かに、僅かではあるがこの手には不二の温もりが残っている。
だが。今、目の前には、何もない。
「………一体、何だったんだ?」
オレの呟きは、誰もいない部室に広がり、自分の耳へと虚しく還ってきた。
だが、やはりその出来事は夢ではなかった。
それからというもの。不二はやたらとオレに付き纏うようになっていった。
「ねぇ、手塚。お昼一緒に食べよ?」
「今日、一緒に帰ろうよ」
「手、繋いでもいい?」
まるで今までの空白を取り戻すかのように、もの凄い密度で埋められていく、不二との時間。
それ自体に不満は無い。誰かから好意をもたれるということは、気分の悪いものではない。
ただ、オレは構われることに慣れてないから。
不二に何を訊かれても、ああ、とだけしか答えることが出来ない。それが、何となく嫌だった。
けれど。不二はそんなことは気にならないようで。ただ、オレの短い言葉に、嬉しそうに微笑っていた。
不二が隣にいるという生活が当たり前になるまで、そう時間はかからなかった。もともとオレの隣には空白しかなかったのだから、その気が在れば、多分、すぐに誰でも陣取ることは出来たと思う。それを今まで誰もしなかっただけで。
ただ、不二はあれ以来、1度もオレに『好き』とは言ってこなかった。オレはオレで、それでいいと思った。きっとあれは、友達という意味だったのだろうから。男が男を本気で好きになるなんて、可笑しな話だ。
ただ、最近、不二の笑顔を見るたびに思う。
今度、不二に自分を好きかと訊かれたら。
オレは、どう答えるべきなのだろうか、と。
その当たり前が崩れる日は、突然に、唐突に。あの告白から2ヵ月後にやってきた。
「じゃあね、手塚」
「ああ。」
いつもの会話に。いつもの返事。部室のドアが、音もなく閉まる。
静まり返る部室。
……静まり返る?
「―――え?」
そこまできて、オレはやっと違和に気づいた。不二はさっき、オレに一緒に帰ろうといったのではなく、さよならを言ったのだ、と。
「不二っ!」
慌ててドアを開け、遠くにいる不二に向かって叫んだ。けれど。オレの声が届いているのか届いていないのか。不二は振り返ることなく。どんどん小さくなっていく。
「……不二」
溜息混じりに、その名を呟く。
何をやっているんだ、オレは。
とりあえず、オレは部室に戻ると、帰りの支度を続けた。
今日はきっと急いでいたのだろう。別にオレが不二と帰りたかったというわけではないのだから、どうということはない。今日だけだ。明日になればきっと…。
けれど。その『明日』というものは、1週間が経ってもやってこなかった。
不二はもう、オレに付き纏うようなことはしなくなった。
避けられている、というわけではないと思うのだが、オレが話しかけない限り、近づいてこなくなった。まるで、昔に戻ったかのように。
だが別にそれはそれで構わなかった。オレは独りでいることになれているし、それまでもそうだった。あの2ヶ月が特別だっただけ。昔に戻っただけだ、と。
そう。あれは何かの間違いだったんだ。不二がオレを好きだなんて。
何故、という疑問は残るが、ただそれだけだ。それ以外は、何もない。今まで通り。
……まるで、自分を無理矢理納得させているようだな。
何となく、笑えた。笑える。でも。
「何だ、これは」
気がつくと、オレの頬を生温かいものが伝っていた。それが何なのか、すぐに認識は出来なかった。
けれど。それが涙だとわかった瞬間。
「……っ。」
オレの眼からは信じられないくらいの涙が溢れてきた。
路上で意味もなく泣いてしまうなんて。こんな情けない顔、誰にも見せられない。オレは涙を拭うと、帰路を駆け出した。
扉を閉める。部屋の中はとても静かで。オレは制服のままベッドへと身を投げた。
拭ったはずの涙が、また溢れてくる。
何なんだ、この淋しさは。
「不二…」
呼んでも、返事など来ないのに。オレの隣には空白しかないのに。
だが、それはいつもの事だった筈だ。オレはいつも独りで。オレの隣に誰かがいるなんて、それは一時の夢でしかなかったんだ。元に戻っただけだ。特別なことじゃない。
なのに。今、感じている淋しさは何なんだ?
―――ああ。そうか。そういうことだったんだ。
不意にやってきた答えは、とても簡単で。もしかしたらそれは、初めから用意されていたのかもしれない。
オレは、不二が、好きだ。
多分、オレの隣にある空白は誰でも埋められるものではなくて、不二でなければ駄目だったのだ。もしかしたら、その空白も不二のために存在していたのかもしれない。
そして。その温もりを、不二周助という存在を認めてしまったオレは、もう…。
「話って、何?」
「その、だな…」
放課後の部室。不二がオレに告白をしたのと同じ。ただ、違うのは、不二の表情が笑顔ではないということ。
どう切り出そうか口ごもるオレに、不二の溜息が聞こえてくる。
「話さないなら帰ってもいいかな?」
オレに背を向け、ノブに手をかける。
「ま、待てっ」
慌てて、ノブにかけられた不二の手をとる。
「………手、痛いんだけど」
きつく掴まれている手に目を落とすと、不二が言った。
「すまん」
呟いて、掴んでいた手を緩める。けれど、離さない。両手で、包み込むように優しく握る。
2ヶ月ちょっと前のことを、思い出す。まるで、逆の立場。
そうだ。あのときの不二の言葉を、オレは言おうとしている。
「不二」
名前を呼び、その眼をじっと見つめる。
深呼吸。
「不二。オレはお前が――」
好きだ、と言うのとほぼ同時かそれよりも少し早く、不二の口元が僅かに吊り上った。