「髪切るなら、付き合うよ」
突然、彼が呟いた。
「え?」
「その様子じゃ、手塚君に振られでもしたんだろ?」
ブランコを揺らしながら、彼がぎこちなく微笑った。
「まあ、振られたって言うか何て言うか、ね。それよりも、君がこれ以上髪を切ったら、裕太みたいになっちゃうよ?」
僕は先程彼から貰った缶コーヒーを開けると、口をつけた。もう長い間沈黙してたようだ。苦いコーヒーは、酷く生ぬるかった。
「はは。それもそうだな」
勢いをつけて彼がブランコから飛び降りる。彼はとっくに飲み終わっていたらしい。空になった缶をゴミ箱へと投げ入れた。
「上手いね。テニスよりもバスケの方が向いてるんじゃない?」
「俺はオールマイティなんだよ」
僕の言葉に彼は苦笑すると、再びブランコに座った。軋む音が鉄を伝って僕まで響いた。
「手塚がさ、僕と同じ高校に行くって言うんだ。全く。困るよね」
「………何が困るんだ?いいじゃないか、その分、一緒に居れるんだし」
「駄目だよ。僕は高校ではテニスはやらないから」
「おいおい、勝ち逃げする気か?」
「そうとられてもしょうがないかな。とにかく、僕のテニスは中学で終わり。だからそのまま青学に上がろうと思ってるんだ」
コーヒーを一気に飲み干し、ブランコから降る。ゴミ箱へとそれを投げ捨てると、彼の前にまわった。彼は納得がいかない風な顔で、僕を見ている。僕は柵に寄りかかると、苦笑した。
「僕と勝負したいなら、いつでも受けるよ」
「何で、同じ高校だと困るんだ?」
「え?」
「手塚君」
「ああ」
どうやら彼が納得いかなかったのは、僕の勝ち逃げのことじゃないらしい。僕は小さく溜息を吐くと、彼を見詰めた。
「だからね、手塚にはテニスを続けて欲しいんだ。実際、彼は何よりもテニスが好きだし、そうだと言い切れるだけの実力がある。こんなところで埋もれて欲しくないんだよ。だから、もっとテニスのレベルの高い高校に行ってもらいたいんだ。彼も一度、検討してたみたいだしね」
彼の言葉も聞かず、テニスを止めると言い切った僕が言える立場じゃないけど。それでも、彼にはもっと大きな場所で活躍して欲しいと思う。それが彼の小さい頃からの夢だと聞いてるし、僕の夢でもある。いつか世界で活躍する彼を、フィルムに収めたい。
「だけど、手塚君はテニスよりも君を選んだんだろ?それだったら彼の意思を尊重するべきなんじゃないのか?」
「まだ彼のココロにはわだかまりが在ったんだ。それは決定だとは言えないよ。だから背中を押してあげたの。それだけだよ」
一瞬、別れを告げたときの彼の顔が頭を横切って。僕は溜息を吐いた。
「俺は、不二のしたことが正しい選択だったとは思えないけどな。君も、きっと手塚君だって傷ついてる」
「解かってるよ、そんなことくらい」
「だったら…」
「でも、僕たちの関係が未来永劫続くものだって、誰が言い切れる?そんな保証の無いモノの為に、夢を諦めて欲しくないんだ」
「それじゃあ、不二は手塚君がプロになれる保証はあるとでも?」
「在るよ。僕が保証する」
「………相変わらず、勝手だな、不二は」
真剣な僕の言葉に対し、彼は笑った。偶に僕が真剣になると、彼はいつも笑う。彼が真剣なときに僕が笑うと怒るくせに。勝手なのは一体どっちなんだか。
「じゃあ、質問を変えよう」
言いながら人差し指をピンと立てる。それを僕の顔へと向けた。
「それで、手塚君が君以外の誰か…例えば、彼に似てるっていう越前君と一緒になってもいいというのかい?」
その言葉に、胸が痛んだ。脳裏に、いつかの風景が浮かぶ。越前が、手塚に告白をしていた放課後。彼はそれを断ったけど。越前はきっと、まだ諦めていない。
「………手塚は、どうして僕を選んだんだろう」
「?」
「ううん。独り言」
彼に微笑ってみせると、僕は俯いた。
手塚は、どうして僕を選んだ?自分に似ている越前よりも、正反対の僕を。
きっと越前の方が、僕よりも彼を理解できるし、大切にしてくれるだろう。彼の幸せを考えたら、そっちの方がいいのかもしれない。
「そうだね。それでもいいかもしれない。越前なら、きっと手塚を幸せにしてくれるよ」
顔を上げると、僕は微笑った。それを見た彼は、大きな溜息を吐いた。
「解かってないな。だったら何故、手塚君は君を選んだ?夢を蹴ってまで君と一緒にいることを望んだんだ?」
「………っ」
彼の気持ちなんて、考えても見なかった。彼は今でもテニスをイチバンに考えていると。心境の変化なんて、誰にでも起こり得るのに。
「まあ、それも別れた今となっては、どうでもいい話だけど」
もしかしたら、僕はとんでもない思い違いをしていたのかもしれない。
ねぇ、手塚。僕は今からでも間に合う?
「それより、不二」
急に強い声が飛んできて。僕は彼を見た。真剣な眼が、僕を見ていた。
「お前は今、フリーってことだよな」
「……一応、ね」
「だったら、俺と付き合ってみないか?」
彼が立ち上がり、僕の肩を掴む。そのまま、僕たちは暫く見詰め合った。
佐伯と付き合う、か。考えても見なかった。まあ、彼ほど僕を理解してるヒトはいないだろう。彼はどちらかと言うと、僕に近いタイプだから。
でも、やっぱり僕は…。
「佐伯」
「ん?」
「髪、切りなよ。大丈夫、きっと似合うよ」
肩にある彼の手を解くと、僕は微笑った。反対に、彼が大きな溜息を吐く。
「あ。やっぱり?」
「キミの言う通りだよ。確かに、僕とキミ、手塚と越前は似ているから、お互いをより理解し合えるかもしれない。でも…」
「手塚くんが、好きなんだろ?」
「うん。ごめんね」
「まあいいさ。解かり切ってたことだし。言ってみただけだから」
彼が無理矢理に微笑う。僕はもう一度、ごめんね、と呟いた。
「やっぱ、俺って馬鹿なのかな。不二の後押ししちゃうなんてさ」
項垂れながら呟く。その姿が昔と変わってなくて。僕は思わず声を上げて微笑った。
「…わ、笑うなよ」
「でも、僕。佐伯のそういうところ、好きだよ」
「…え?」
好きだよ、と繰り返すと、顔を上げた彼の頬にキスをした。親愛の、情を込めて。
「…ふ、じ?」
「今日はありがと。僕、もう行くよ。今からなら、まだ間に合うと思うから」
電話をしてしまえば早いんだろうけど。今は、直接手塚に伝えたい。彼に、会いたいから。
「不二っ!」
駆け出した僕を呼び止めるように、彼が大声で呼んだ。立ち止まり、振り返る。
「言っとくけど、俺、諦め悪いからな。それと、髪切ることになったら、俺に言えよ。俺も付き合うから」
「うん。じゃあね」
手を振り、ありがと、と呟くと、僕は彼に背を向けて走り出した。僕や彼とは正反対の、常に眉間に皺を寄せている手塚の元へ…。