「遅くまでご苦労様」
「……不二、か」
「うん」
何が可笑しいのか、クスクスと微笑いながら不二は俺の前に座った。
「練習メニューの考案かい?レギュラーになれたって言うのに」
「まぁな。これからの試合は今まで以上に厳しくなることが予想されるからな。今までよりもさらり有効な練習メニューを考えないと」
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくてね」
困ったように微笑うと、不二は俺の手からシャーペンを取り上げた。ノートを閉じる。
「不二、何を…?」
「だから、何で君がそんなことしなきゃならないのかってこと」
「何だ、そんなことか」
不二の手からシャーペンと取り返すと、俺はそれで不二の顔を差した。
「俺がやらずに、誰がやるんだ?」
不二の眼を見つめて、言う。俺の仕事の邪魔をするな、と言うように。けれど。
「だから、スミレちゃんにやらせればいいじゃない」
俺の手をどけると、不二はあっさりと返してきた。少し、不服そうな雰囲気を含んで。だが、俺もこんな所で引き下がれはしない。
「部員の視点から見ないと解からないことだってあるだろ?」
「だったら、部長の手塚とか、副部長の大石にやらせればいい。そんなの、平部員の僕らがやることじゃないんだ」
俺の反論が気に入らなかったのか、不二は少し語気を強めて言った。このままだと、その青い眼が開いてしまうだろう。
確かに、不二の言うことはもっともだと思う。元No.3とはいえ、つい先週はでは補欠だった俺が、こういうことをするのは普通に考えたら変かもしれない。でも、これは俺が好きでやってることであって、誰かにやらされているわけではない。だから、不二がそのことで怒る理由もない。そうだ、不二にそんなことを言われる理由はどこにも無い。
「不二」
「何?」
「何で怒ってるんだ?」
「怒ってないよ」
「怒ってるだろう?何故だ?俺は好きでこれをやってるんだぞ」
「………そつき」
「へ?」
「そうやって、君は部室に遅くまで残って…。全然僕と一緒にいてくれないじゃない。レギュラー入りするまでの我慢だって言ってたのに。嘘つき」
鋭い眼で俺を睨むと、不二は椅子ごと俺に背を向けてしまった。これは、怒ったというよりも、拗ねてるな。
……そういえば、ここの所ずっと、不二とは一緒に帰っていない。
俺がレギュラーだった頃はよく一緒に帰っていたけど。補欠入りしたときに、俺は不二よりも練習をとった。そのお陰でこうしてまたレギュラー入り出来たわけだけど。今は自分の練習と雑用ばかりで…。
「わ、悪かったよ」
「いいよ、別に。乾は僕よりもテニスが大事なんでしょ?あ、データか」
まずい。完全に機嫌を損ねてしまっている。
俺は立ち上がると、不二の前にまわった。背けようとする不二の顔を、両手でしっかりと押さえる。
「悪かった。謝るよ。それで、これからは不二のこともちゃんと考える。だから赦して」
「嫌だ」
「赦してください、お願いします」
「………とりあえず、手、放してくれない?」
「あ、ああ」
言われて、俺は慌てて手を放した。不二は整えるように自分の頬をさすっている。
「で――」
「乾」
「は、はい」
「僕のこと、好き?」
「そりゃあ、もちろん」
「テニスより?」
「テニスより」
「データより?」
「比べものにならないくらい好きだよ」
「そう。じゃあ、もうちょっとこっち…」
少し表情を和らげると、不二が手招きした。何か嫌な予感がしたが、俺は不二に顔を近づけた。途端、不二の両手が俺の両頬をしっかりと押さえ込んだ。
「ふっ…」
俺の予感は半分当たり、半分外れていた。まずは、予想通りの不二からのキス。ただ、それが思っていた以上に濃密で。
「………んっ、ぁ……はぁっ」
長い間、禁欲生活を送っていた俺は、早くも息が上がってしまっていた。
不二が椅子からおり、片膝をついた俺を強く抱きしめる。
「……帰ろっか」
「え?」
不二の口から出てきた意外な言葉に、俺は体を離してその顔を見つめた。てっきり、このまま先に進むと思っていたのに。
俺と眼が合った不二の口元に、薄っすらと笑みが浮かぶ。
「だってここじゃ、思いっきり声上げられないでしょ?今、すっごく君を虐めたい気分なんだ」
まだ、怒ってるんだな。さっきまでの拗ねたのは演技だったのか。
クスクスと不気味な笑いを発しながら、不二は俺の手を掴み立ち上がった。どうにもならないと悟った俺は、これ以上不二の機嫌を損ねないよう、その手にしっかりと指を絡ませた。