29.世界にたったひとつだけ(はるみち)
「……お帰りなさい」
 疲れた様子で帰ってきた彼女に、私は振り返らずに言った。息を飲む音と、暫くしてスイッチの音。明るくなった視界には、それでもまだ彼女は映らない。
「灯りくらい、点けろよ」
「別に何をするわけでもなかったから」
「その、無駄をなくす、みたいな思考。やめたほうがいいぜ?」
「どうして?」
「種の存続以外の、つまりは無駄とされることを出来るのが、人間だからさ。君の芸術だって音楽だって、人類にとっては無駄なものだ。邪魔ではないけどね」
「私が生きていくためには必要なものよ」
「そうかな。水と食料さえあれば、人間は生きていけるはずだけど」
「意地悪ね」
「君が先だよ、みちる」
 ようやく私の後ろに立った彼女は、ソファ越しに私を抱きしめてきた。耳元で、ただいま、と囁く。それは、全身に熱を持たせる、甘い声。
 でもきっと、これは彼女に言わせれば無駄なこと。でも、邪魔ではないと彼女は言った。邪魔でないのなら、それでいい。
「今日は何の用?」
「……私には、貴女の方が無駄を排除して生活しているように思えるわ」
 重ねた手をすり抜けて隣に座った彼女は、そうかな、と惚けると私の肩を抱き寄せた。甘い時間に、本来の目的を忘れてしまいそうになる。
「はるか。私――」
「僕は、人間だから」
「え?」
「無駄なこと。好きなんだ。本当は、少しも無駄だなんて思っちゃいないけど」
 私の肩を抱く手に力が篭る。少し痛かったけど、その肩にもたれながら見た彼女の横顔に、私は黙った。触れる箇所を通して、鼓動が伝わってくる。
「みちる……」
 名前を呼ばれて顔を上げると、触れる、唇。辛そうに微笑む彼女に、私は出来る限りの倖せな笑みを返す。
 でも今日は流されてはいけない。そのために私は今、ここに居る。
「ねぇ。最近一緒に帰ってくれないのはどうして?それに帰りだってこんなに遅くて……」
 体を離して、彼女を見つめる。
 彼女は目をそらしてあれこれ言い訳を考えていたみたいだったけど。言い訳が思いつかなかったのか、私の真剣な目に諦めたのか。溜息を吐くと、立ち上がった。私の手を引く。
「はるか?」
「少し、早いけど。余り君を不安にさせるのもよくないからね。……みちる、出かけるよ」
「何処に?」
「……学校」

 彼女のバイクに乗って、辿り着いた学校。
 もう八時を過ぎていたけれど、警備員に話したら快く通してくれた。
 連れて行かれたのは、体育館の二階にある小ホール。
「パイプ椅子で悪いけど」
 部屋を出てからずっと黙ったままだった彼女は、そこでようやく私に向けて言葉を放った。私を座らせて、自分はステージへと上がる。
 彼女が座ったのは、グランドピアノの前。
「クラシックを弾いてばかりだったから、作曲なんてしたことなくてさ。だから、君からしたら理論とかメチャメチャなのかもしれないけど。とりあえず、聴いて」
 そういって私からピアノへと視線を移すと、彼女は白い鍵盤の上に両手を置いた。
 指が、流れるように動く。
 体を包む音に、潮のにおいと風を感じる。彼女がピアノを習っていたことは知っていたけど、実際にそれを見るのは初めてだった。
 だから本当はもっとずっと見ていたかったけれど。体に降り注ぐ優しい音に、私は目を瞑って身を委ねた。

「凄いわ、はるか。初めて作曲したの?」
 演奏が終わり、私一人のスタンディングオベーション。
 そのままステージに近寄ると、彼女は一礼してステージから飛び降りた。
「そう。僕の最初で最後の作曲。はい、譜面」
「譜面?貴女、暗譜していたんじゃなくて?」
 彼女から手渡された譜面を受け取りそれに目を移す。書き直した痕がひとつもないそれは、まるで私に渡すために清書されたように思えた。
「してたよ。そのために練習したんだ。それは、君へのプレゼント用」
「プレゼント?」
 言葉の意味が分からなくて、顔を上げる。すると、彼女の唇が私に触れた。
「誕生日、おめでとう。……出来れば来週。当日に渡したかったんだけど。世界にたった一つしかない、プレゼント」
 苦笑しながら言う彼女は、少し照れくさそうで。私は思わず彼女に抱きついた。折角の綺麗な譜面が、その勢いで少しだけ歪んでしまう。
「ありがとう。嬉しいわ。……でも、貴女の定義からすると、とても無駄なものね」
「だから価値があるんだよ。とても人間らしい。それに、無駄だけど意味が無いわけじゃない。……だろ?」
「ええ。貴女の気持ちは充分すぎるほど伝わったわ」
 そこまで言って、ようやく私は体を離した。けど、見つめ合っているうちに、私たちの距離はまたゼロになってしまう。
「ねぇ、はるか。これ、少しアレンジして一緒に弾きましょう?貴女はピアノで、私はヴァイオリンで」
「え?」
「だって勿体無いわ。自慢したいもの。はるかが私のために書いてくれた曲。ねぇ、いいでしょう?」
「でもこれは。君のためだけに……」
「ええ。だから、アレンジを加えるのよ。オリジナルは、貴女のピアノで奏でたあの曲は私だけのもの。ねぇ、いいでしょう?」
 まるで子供みたいと思ったけど、嬉しさが止められなくて。はしゃぎながらせがむ私に彼女は苦笑すると、やれやれ、と優しい声を漏らした。
「いいよ。僕なんかの曲でよければ」
「何言ってるの。貴女の曲だからいいんじゃない。ねぇ、タイトルは?」
「……タイトル?そんなもの無いよ」
「そうなの?」
「そう。これは僕と君だけの間で完結する曲だから。二人しか知らないんだ。名前なんて必要ないだろ?」
「そういうものかしら?」
「じゃあ、アレンジを加えたほうにタイトルをつけよう。これは世間に認識されるために必要だ」
「……よく分からないけれど。そうね。タイトルが無い方がピリオドっていう感じがしないから。私たち2人の曲としては相応しいかもしれないわ」
 私の言葉に、今度は彼女がよく分からないといった風な表情をしたけど。暫くして笑顔になると、もう一度私たちはキスを交わした。
(2009/10/14)
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