304.自己流ストレス発散法(はるみち)
 水族館にでも、行こうか。
 窓辺に座って外を眺めていたはるかが、窓に映る私と目を合わせると、独り言のように呟いた。

「珍しいわね、貴女から誘うなんて」
 いつも、私が水族館に行きたいと駄々をこねるのに。オープンカーに片肘を乗せて運転しているはるかに言う。そうだっけ。はるかは一瞬だけ私を見ると、軽い調子で返した。
 でも。一体何にイラついているのかしら。
 風がいつもより大きな手で私の風をさらっていく。スピードメーターを覗き込むと、案の定、いつもより大きな数字の上でそれは振れていた。
 はるか。
 呼びかけたくなるのをぐっと堪える。それは特に意味のない呼びかけだから。運転中にそんなことをしたら、きっと邪魔になってしまう。
 でも、名前を呼びたいということそれ自体が意味にはならないのかしらとも思う。
「ねぇ、はるか」
「なに」
 どうして右手で運転しているの。
 意味のある呼びかけをしたくて見つけ出した話題。けれど、私は直前になってその言葉を飲み込んだ。かわりに、なんでもないわ、と風に消えそうなほどの声で呟く。
 そう、と、はるかの口が動く。音は風にかき消されて聞こえなかった。
 見つめていたはるかの横顔から、ハンドルを握っている右手に視線を移す。それから、今にも車外に放り出されそうな左手に。
 どうして今日は右手で運転しているの。どうして今日は左ハンドルなの。左手で運転していれば。その手に触れていられるのに。
 移した視線を反対に辿り、膝にのせたままの自分の手に着地させる。手を開き、何度かにぎってはひらいてと繰り返していると、視界にすらりとした指が入ってきた。
「はるか」
「ごめん。こんな季節にオープンカーじゃ、寒いよな」
 いつの間にハンドルを持ち替えたのだろう。はるかの左手はハンドルへと移り、右手は私の手をそっと握っている。
 温かく、少しだけ湿った手。そんなにも強くハンドルを握っていたのかしら。
 それでも、やっぱり嬉しいから。私ははるかの手の中で折り曲げられていた指を伸ばすと、両手ではるかの手を包んだ。そのことに、何故かはるかが苦笑する。
「君が、さ。最近、ストレス溜まってるみたいだったから」
「えっ」
「気持ちを落ち着かせるには、水族館が一番かなと思ってさ。僕は僕で、車を飛ばせるし」
「そんな。私」
「苛立ってるのとは違うんだよな。けど、ストレスは溜まってる。違うかな」
 そう、かもしれない。口にはせずに、頷く。それはきっとはるかには見えてないのだろうけれど、返事をし直すことはしなかった。かわりに、はるかに触れている手に、少しだけ力を入れる。
 でも。と、思う。でも、気持ちを落ち着かせるのなら。水族館に行かなくても、私は。貴女を見つめていられれば、それでいいのに。

 信号で止まったところで、それまでギアを握っていたはるかの指が動いて、私の指に絡まってきた。驚いてはるかを見つめると、既に私を見ていたその目と視線が交叉した。
「こうしてずっと見つめていれば、君は落ち着けるんだろうけど。それじゃあ僕が、ストレス溜まりそうだからさ」
 はるかの言葉に、いつかに言った私の謎かけが解かれていたことを知る。そしてそれを憶えていてくれたことに喜びを感じたけれど、私の口から出てきたのは、別の言葉だった。
「それって、どういう意味」
「だから、さ」
 思わず口を尖らせた私に、小さな溜息を交えながらはるかは言うと、シートから背中を離して体を捻った。見つめるはるかの目が、ゆっくりと大きくなっていく。
「っと」
 けれどそれは、私の目が焦点を合わせていられる距離で止まってしまった。後方から、運転手の苛立ちを告げる短いクラクションが何度も響く。
「そんなに何度も鳴らさなくても、走るって」
 近づいてきた時とは反対に、あっさりとシートに背をつけると、はるかはギアを入れ直して車を発進させた。
 窓がないと、うるさいな。クラクションを叩く手を止められないのか、車が走り出してもなお短く鳴り続けているそれに、はるかが苦笑しながら言う。
 そうね。頷いてはみたけれど、私は大して気にしてはいなかった。それよりも、はるかの右手がいつギアから離れるのだろうかと言うことの方が気になっていた。

「僕は、君をただ見続けてるなんてこと、出来ないから。お預け食らってるみたいで、きっとストレスが溜まると思うんだ」
 クラクションが止み、後ろの車と充分すぎるほどの距離が開いたころ、はるかは言った。
 えっ。聞き返す私に、ようやくギアから離れた右手が触れてくる。
「こうして君に触れるのだって。結構ストレスが溜まるんだぜ」
 だから。はるかは言うと、指先を絡めようとした私の手から逃れ、髪を撫でてはギアへと戻っていった。その手を、追いかけようとして、留まる。
 誰も、お預けなんて言ってないのに。触れるかわりに右手に向かって呟くと、はるかが、なに、と聞き返してきた。
「なんでもないわ」
 視線をフロントガラスのその先へ向け、言う。そう。今度ははるかの声がはっきりと聞こえた。そこには疑問の色が混ざっていて、もしかしたら前のときも同じように言っていたのかもしれないと少し悔やんだ。けれど、自分の手にある温もりが僅かになっていることに気付いた私は、両手をしっかりと握り合わせると、早く水族館に着くことだけをただ思った。
(2010/03/13)
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