360.早まるな(はるみち)
「何してるんだよ」
「離してっ」
「みちる!」
 掴んだ彼女の左手から、無理矢理ヴァイオリンを奪い取る。こんな高いもの、僕が手にしていいはずはないけれど、それでも今回は仕方がない。
「……今、壊そうとしただろ」
 力なく垂れ下がったみちるの腕。落ちそうになる弓も奪い取ると、僕はそれをケースへとしまった。一瞬、メンテナンスのことが頭を過ぎったが、僕は早く両手を自由にしたかった。
「みちる」
 肩を抱き、広げたパイプ椅子へと座らせる。放心したように腰を下ろした彼女に、僕は溜息を吐いた。
 彼女の部屋に遊びに来て良かったと思う。練習の邪魔になるかもしれないと思いながらも、突然の訪問を驚かそうと防音室に入ったその時。僕の視界に映ったのは、ヴァイオリンを天井高く掲げ、今にも床に叩きつけようとしている彼女の姿だった。
「……たの」
 もう一脚のパイプ椅子を広げようと彼女から手を離した時、消え入りそうな呟きが聞こえた。震える両手が彼女の目の前まで掲げられる。
「みちる?」
「この間までは、簡単に弾けていたの。でも、今日は弾けなかった。あんな簡単なフレーズも。弾けなくなっていたの」
 彼女はどんな時もヴァイオリンの練習を欠かしていないことを、僕は知っている。ただ、ここ数日は毎日のように戦闘があったから。練習に裂く時間は減っていたのかもしれない。
「大丈夫だよ、みちる。これから」
「はるかは何も分かっていないわ。こういうものは、練習を一日休むと取り戻すのに三日かかるの。ここの所、妖魔の出現率が多くなっている。きっともっと練習時間は削られていくわ」
「だからって、何も」
「今のままだと、未練が残ってしまうから。壊してしまった方がいいの。その方が、諦められるわ」
 掲げた手を強く握りこむと、彼女は僕がしまったヴァイオリンを睨みつけた。
「……みちる」
 震えているその拳に触れ、無理矢理に手を開かせる。
「駄目だ。怪我をする」
「だから、私はもう」
「早まるなよ。……きっと、後悔する」
 彼女と、ヴァイオリンとの間に立ち、しゃがみこむ。その顔を覗きこむと、珍しく彼女の方から目をそらした。大丈夫、みちるはまだ迷ってる。
「みちる」
 呼びかけると、彼女はゆっくりと僕を見た。その目は、早くも後悔に揺れていて。僕は少しだけ安堵した。
「必ず、タリスマンを見つけ出す。僕がこの世界を救ってやる。だからもう少しだけ、時間をくれないか? 僕が必ず、君をヴァイオリニストにするから」
「……はるか」
「だから。……僕を、信じてくれないか?」
 バラバラに繋いでいた両手を重ね、強く握りしめる。自信というより、それは決意に近いものだったけれど。それでも、みちるに夢を捨てて欲しくない。そのためなら、僕は――。
「なんだか」
 長い沈黙の後、溜息を吐くと彼女が口を開いた。零れてくる言葉は軽く、しかし投げやりなものでもなかった。それよりも、もっと。なんか……。
「プロポーズみたいね、それって」
「えっ?あ。いや、その……」
 思いがけない言葉にうろたえる僕に、彼女はクスクスと笑うと、ありがとう、と唇で囁いた。
(2010/05/30)
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