542.風とともに去りぬ(不二榊)
 香水つけるのやめてくれませんか。私の首筋に顔を埋めると、彼は言った。煙草を吸っているわけでも、翌日に持ち越すほどアルコールを飲んでいるわけでもないのに。
 嫌いか。尋ねる私に、彼は静かに首を振った。あなたを抱いた後で、体にこの香水の匂いが移っているの、好きですよ。
 だったら構わないだろう。
 僕は構わないんですけど、ね。
 意味深に微笑んで再び私の首筋に下を這わす。彼が構わないというのなら、誰が構うのか。残るは私しかいないのだが、私だって彼の体に自分の匂いを残せるのなら構わない。
 マーキングだな。彼を体の奥深くで感じながら思う。だが、彼も私に幾つものマークを付けているのだから、お互い様だろう。
 本当に、そうなのか。
 誰かが疑問を投げかける。だが、それに対する答えを考える間もなく、私の意識は白濁した。

 マーキングはお互い様。それが間違いだということに気付いたのは、彼が私の元を去ってからだった。
 体に刻まれていた彼からのマークはやがて消え、彼との日々は夢だったのではないかと思うようになっていた。
 ただ時々、香水を振り掛けるときに、あのやりとりを思い出す。けれどこれは、彼の匂いではない。
 どうにかしてあの時の彼の匂いを思い出そうとしてみるけれど、自分のそれが邪魔をして、思い出すことが出来ない。
 きっと彼なら、この香水を切欠に様々な記憶を甦らせることが出来るのだろう。自ら私の元を去った彼が、私に想いを馳せることが今でもあるのなら、の話ではあるが。
「構わない、か」
 それは一体どちらの意味だったのだろうか。
 どちらでも、今となっては同じことだが。
 深呼吸をして顔を上げる。開け放ったままの窓から入り込んできた春の風に、一瞬だけ彼の匂いを想い出せた気がした。
(2011/04/06)
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