569.バックトゥリターン(ウラみち)
 窓辺に座り、夜空を見上げる。満月まで、あと三日。私はそれを、期待と絶望の中で待ち続けている。

 満月が怖い、と、はるかが言った。自分が自分でなくなる感じがすると。
 まさか。狼男じゃあるまいし。それに、満月は私たちの力を最大限に引き出してくれるのよ。笑いながら言う私に、彼女は焦点の合わない目で、だから怖いんじゃないか、と呟いた。
 あれはまだ、彼女が覚醒してから半年も経っていない頃だった。その時の彼女の目の奥に暗い影は見えていたものの、以後満月についてなにも言ってこなかったので、いつの間にか記憶の片隅に追いやられていた。
 あの時、彼女の言葉をどうしてもっと真剣に聞いておかなかったのだろう。
 後悔しても、もう遅い。
 けれどこれは、何に対する後悔なのだろう……?

「ネプチューン」
 ベランダで月を眺めていた彼女に最初に呼ばれたとき、自分のことだとは思わなかった。だって変身していなかったし、声に乗せられた感情に何だか違和感があったから。
 けれど、顔を上げた私を彼女は真っ直ぐに見つめていた。何かを確かめるような鋭い眼差し。それから小さく溜息を吐くと目を三日月に細めた。もう一度、ネプチューン、と私を呼ぶ。
「はるか?」
「ようやく、会えた。君の元に戻ってこれたんだ」
 ソファに座っている私の手を引き、強く抱きしめてくる。突然のことに真っ直ぐに立ち上がれなかった私は、抵抗も出来ず、殆どもたれるようにして彼女に身を任せていた。
 どれくらい、そうしていたのか分からない。私の髪に顔を埋めたままいつまでも動こうとしない彼女に僅かに身じろぐと、ああ、と声を上げてようやく解放してくれた。よろけてしまわないよう、彼女の腕に捕まり、姿勢を正す。
「どうしたのよ、はるか」
「僕はウラヌスだ。天王はるかじゃない」
 またあの眼差し。それは私の目を通り過ぎ、その奥にある誰かを見つめているようだった。
 ウラヌス。頭の中で、誰かが囁く。
 違う。違うわ。
「私は海王みちるよ。ネプチューンではないわ」
「何を言ってるんだ?」
「あなたがはるかではないのと同じよ」
 そう、今目の前にいるのははるかではない。信じられないことだけれど、似たようなことが私にも起こりかけたことがあるから、分かる。
 満月が怖い。はるかの声が甦る。
 そう、今日は満月。私たちの戦士の力が月の光を受けて強くなる日。だからなのかもしれない。はるかの中のウラヌスが、はるかを押し込めて出て来てしまったのは。
 思い返せば、はるかはずっとウラヌスとの考えの違いに悩んできた。私は幼い頃からネプチューンの、前世の夢を見てきたため、今では殆ど同化してしまっているけれど。はるかはそうじゃないから。
「僕は確かに天王はるかじゃない。でも君は、海王みちるでもあり、ネプチューンでもある。そうだろ?」
 真っ直ぐな目。優しさはあるけれど、それによって何かに迷うことは決してない。想いと行動とを容易く切り離せる、強い信念を秘めた瞳。それを強い心と言うのかどうかは分からないけれど。
 はるかとは違う目。似てはいるけれど、同じではない。
「私は」
 私は、どうなのだろう。ネプチューンと、違うのだろうか。まだ、自分の中にネプチューンと言う他人を感じることがある。だから完全に同化しているわけではないと思うけれど。
 ただそれとは別に、目の前の彼女に、ウラヌスに、私自身が何かしらの想いを抱いていたことは紛れもない事実であり。
「会いたかった」
 優しく響く言葉。彼女の手が私の頬に触れ、唇が近づく。この人ははるかではないという思いと、この人がウラヌスであるという想いが、私の体を動けなくさせる。
 やがて触れた唇は、確かにはるかのものだったのに。私はその瞬間、ウラヌス、と呟くと彼女を強く抱きしめていた。

 何も纏わず窓辺に座りただ満月を眺めている彼女の横顔を、シーツの中からぼんやりと眺める。美しい横顔。はるかは憂いを帯びた表情をするけれど、この人の目には揺らぐことのない決意がある。きっと今夜のことを彼女は後悔などしないのだろう。例え、抱いた相手がネプチューンではなく、ただの海王みちるだったとしても。
「ネプチューン」
「なあに?」
 彼女は、ずっと私をネプチューンと呼び続けている。そのことに今更になって胸が痛んだ。私を見てほしい。ネプチューンじゃない、海王みちるを。
 そこまで思って、私は愕然とした。
 そんな。確かに、私は前世の夢で見るウラヌスに憧憬を抱いてはいたけれど。だって、私には。
「……はるか」
 これは、不貞行為にあたるのだろうか。
「そう。そろそろあいつに体を返す時間だ。……服は、着ておいた方がいいだろうな」
 混乱する私を他所に、彼女は窓辺から降りると脱ぎ捨てられていた服を迷いなく身につけていった。
 シャツのボタンを総てとめ終えたところで、ようやく私の視線に気付き、不思議そうな顔をする。
「おいおい、そんな顔するなよ。また、次の満月に会おう」
「……次の、満月?」
「そう。あの月が夜空に輝き続ける限り、僕は何度でも君の元に戻ってこよう。約束する」
 私の頬にそっと触れ、始まりを告げたときと同じように口付けを交わす。
 この人は、やっぱり何も分かっていないのね。満足げに微笑む彼女に、私は私とネプチューンと二人分の胸の痛みを感じた。
 それでも、幻滅など出来ない。
「それじゃあ」
「待って」
「何?」
「お願い。みちるって呼んで。一度だけで、いいから」
 何を、言っているのだろう。何を望んでいるのだろうか、私は。
 これは紛れもなく裏切りだ。私だけだと言ってくれたはるかに対する、使命と感情の中で葛藤を続けているはるかに対する裏切り。
 分かってる。分かっているわ。でも。
「……みちる」
 名を呼ばれ、慌てて思考を引き戻す。けれど。
「はるか」
 焦点を合わせた私の視界に映ったのは、胸に痛いほど優しく微笑んでいる彼女だった。
(2011/07/19)
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