610.耳栓(はるみち)
「ただいま」
 玄関を開け、誰もいない部屋に呟く。その先に待ち受けている暗い闇を迎え入れるため靴を脱ごうと俯いた時、その隅に自分のものではない靴があることに気が付いた。
「みちる、いるのか?」
 声をかけ、廊下を進む。漏れてくる光を頼りに扉を開けると、ソファに座っている彼女がいた。
「みちる」
 後ろ姿に、声をかける。
「みちる?」
 反応を示さないことを不信に思いながら前に回ると、僕の存在に気付いた彼女が驚いて息を詰めた。
 微笑む僕に、長く息を吐きながら、自分の耳に手を当てる。
「はるか……。帰って、たの」
「ただいま。驚かせて悪かったね」
「ううん。私こそ。ごめんなさい」
 抜いた耳栓をケースに仕舞うと、彼女は力なく微笑んだ。隣に座り、その髪に触れる。
「いいさ。自分の所にいたらどうしても音のこと、考えちまうからな。少し、泳いできたらどうだい? どうせ君のことだから、そのつもりでいたんだろう?」
 僕の肩に彼女は頭を乗せると、そのまま静かに頷いた。
「もう行くかい?」
「……もう少し、このまま。こうしていてもいいかしら?」
 髪を梳く僕の手を取り、指を絡める。それまでより体重を多くかけてくる彼女に、僕は小さく笑った。
「けどいいのか? 僕の心臓の音、五月蝿いだろ。それから、呼吸だって」
「いいのよ、これは。……いいえ。これがいいわ」
「えっ?」
「だって。他の音、何も聴こえなくなるんですもの」
 首元に囁き僕と目を合わせると、彼女は倖せそうに微笑み、静かに目を閉じた。
(2010/07/31)
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