612.無料ほど高いものはない(はるみち)
 彼女のマンションの防音室。いつものようにパイプ椅子に後ろ向きに座って、ヴァイオリンを奏でる彼女を眺める。
 流れるような旋律。それが突然止まった。僕には分からないが、どうやら納得の行く演奏が出来なかったらしい。弓を持ったままの手を口元に当て、真剣な眼差しで譜面を見つめている。
 そこで、僕の集中も途切れたらしい。頬杖をつくために背もたれにのせていた右腕から、ぼんやりとした痛みが伝わってきた。両手を組んで、一つ、伸びをする。
「退屈じゃない?」
「……退屈だったら、毎日来ないさ。そういう君こそ、僕がいて気が散らない?」
「だったら、部屋には入れないわ」
 そうかな。僕が動いたことに気付いて声をかけてくるなんて、気が散っている証拠だと思うけれど。
 訝しげな視線を送ってみるけど、彼女は相変わらずの笑顔で。仕方なく、僕は黙った。深呼吸に混ぜて溜息を吐く。
 随分と贅沢な時間だよな。目を閉じ、彼女の音を聴きながら思う。音響の良くない部屋で、練習ではあるけれど。それでも、彼女のヴァイオリンを毎日聴けるなんて。
 けど……。
 無料ほど高いものはないとはよく言ったと思う。毎日最低1時間。長いときは休憩を入れて半日近く。僕はずっと彼女のことだけを考えている。いいや、実際は彼女のことも考えていない。音を聴く。それだけの時間。
 何かを求めてずっと走ってきた昔の僕には、考えられないことだ。けど、気が付けば今はもう、彼女のヴァイオリン無しではいられなくなっている。そのことを、少しだけ怖いと思う。
 もしかしたら、これは彼女の策略なんじゃないか、と。最近は特に、そんな気がしてならない。決して悪い気はしないけれど。
「はるか」
「何?」
「……なんでもないわ」
 目を開いた僕と目を合わせると、彼女は何やら満足げに微笑んだ。開いたままの楽譜。それとは違う、ゆったりとしたメロディが流れ始める。
 本当に、贅沢な時間だ。
 再び目を閉じた僕はそんなことを思いながら、音に導かれるように眠りの中へと堕ちていった。
(2010/11/21)
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