644.記憶にある香り(蔵黄泉)
「……武器を、変えたんだな」
 自分よりも小さな体を、背後から抱きしめる。少しパサついた髪に顔を埋めると、俺はその匂いを思い切り吸い込んだ。
「以前は、自分の位置を知らせることになるからと匂いの強いものは選ばなかったが。自信の表れか? それとも、そんなにも使い勝手がいいか?」
「マーキング」
「何?」
 呟いた蔵馬に聞き返すと、喉の奥で笑う声がした。腕の中からするりと抜け出し、ベッドへと腰を下ろす。近づこうとすると、蔵馬はうなじから一輪の薔薇を取り出した。
 一瞬にして、部屋に薔薇の香りが広がる。
「この香りのついている間は、そいつはオレのものだという証だ」
「匂いが、消えたら?」
「その頃に、また抱けばいい。……そろそろ、そんな時期だな」
 窓の外、代わり映えしない赤い空のその先に向かって呟く。姿形は変わっても、俺以外の誰かを常に思っていることだけは、いつも変わらない。悔しさに奥歯を噛み締めるが、そんな時の蔵馬の表情を何よりも美しいことを俺は知っている。
 見るかわりに、蔵馬の前に立ち、その顔に触れる。形をなぞる俺の指を蔵馬は黙って受けていたが、それが唇に届いた途端、強く噛みつかれた。
 思わず呻いて手を離した俺に、蔵馬がまた、喉の奥で笑う。
「お前にも、マーキングしてやろうか?」
 低い声。いつ変わったのか。気付かなかったことに軽いショックを受けていると、強く手を引かれた。蔵馬の、上半身を押し付ける形で、ベッドに倒れこむ。
「蔵馬……」
「……冗談だ」
 重ねあわせようとした胸を押しやると、蔵馬は低く言った。軋みを立ててベッドから立ち上がり、俺の隣をすり抜ける。
「蔵馬。俺は」
「これから魔界を所有しようとする奴が、こんな薄汚い狐に所有されるわけにはいかない。だろう?」
「……ならば、お前が俺のものになればいい」
 望んでいないことを。何処からか聞こえてきたその声は、蔵馬だったのか、それとも俺だったのか。
「慣れるもんだな。この匂いも。いつの間にか、俺でも感じなくなっている」
「安心しろ。染みつくほどには一緒にいないでおいてやる」
 沈黙を打ち消すために吐いた言葉に、蔵馬が何故か笑いながら返す。
「そうだな。俺の記憶の中にある、獣臭いお前の香りを打ち消されたらたまらないからな」
 蔵馬が笑っている理由は分からなかったが、俺も同じように余裕の笑みを見せていうと、羽目殺しの強化ガラスを拳で思い切り叩き割った。
「黄泉?」
「これでいい」
 笑みの消えた蔵馬に喉の奥で笑ってみせると、俺は自分より僅かに大きなそのを、思い切り抱きしめた。
(2010/07/26)
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