675.目を見開く(はるみち)
 靴はあったのに部屋に入ってもはるかの姿は無かった。可能性がゼロに等しかったから探しもしなかった防音室の扉を覗くと、ようやく後ろ姿を見つけることが出来た。
 今この扉を開けてしまえば、はるかの指を止めてしまうかもしれない。そう思いながらも、目を瞑り熱心に何の曲を弾いているのか知りたくて、私は静かにドアを開けた。音圧が、一気に襲い掛かってくる。
 幸いにもはるかは私の存在に気付くことなく、ピアノの黒いボディに映る目を閉じたその顔は、思わず見惚れてしまうほどに美しかった。
 それにしても。はるかが弾いている曲が、誰のなんと言う曲なのかまるで見当もつかない。普段はるかが耳にする音楽のその殆どを私は把握しているつもりだし、演奏するくらいなのだから気に入っているに違いないのに。 
 プレイヤーとしてのはるかをここまで美しくさせるその曲に、気のせいとはいえない嫉妬が浮かぶ。それでも、奏でられる旋律は美しく、完全に嫌いになることも出来ない。
 複雑な思いで暫く聴き入っていると、突然はるかの指先が止まった。何かを考えるように眉間に皺を寄せ、溜息をつく。そうしてゆっくりと目を開いたはるかは、ピアノの中の私と目を合わせると、確かに目を見開いた。
「お帰り。お邪魔してるよ」
 けれど、その言葉とともに振り返ったはるかは、いつもの余裕のある微笑みを口元に浮かべていた。
 一体何を隠そうとしているのだろうか。私の中ではるかの総てを把握したいという欲がこみ上げてくるのを感じる。そんなこと、どうしたって無理だと分かっているのだけれど。いいや、分かっているからこそ、安心して知りたいと思えるのかもしれない。知り尽くせるものなんて、何の面白味も無い。
「僕がここにいたら、練習の邪魔だよな」
 思考を巡らせてる隙に、はるかは言うとピアノの蓋を閉じてしまった。私の返事も待たず、向こうで待ってる、と言い残し防音室を後にする。
 残された私は、暫くドアの窓から見えるはるかの後ろ姿を眺めていたけれど。溜息とともになんとか諦めると、いつの間にか強く握りしめていたヴァイオリンケースを開けた。
 チューニングをし、ヴァイオリンを肩に乗せる。指鳴らしのため思うままに曲を弾き始めると、どうしても私の指ははるかが弾いていた旋律を追ってしまっていて。それを悔しいと思いながらも、何故か悪い気はしなかった。
(2011/05/04)
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