695.ポケットの万年筆(不二榊)
 背広の内ポケットに、安物の万年筆を見つけた。誰かの忘れ物か落し物を預かっているのかもしれないと思ったが、よく見るとそこには、彼の名前が彫られていた。
 彼は、貰ったものは粗末にはしないが、受け取ること自体が滅多にない。だからこれはきっと、過去に彼に大切に思われた誰かに貰ったものだろう。
 けど。
「……どうかしたのか?」
「こうしてみると、ほんとうに、広い背中をしているんだなと思いまして」
 気付かれないよう万年筆を元に戻し、振り返る。持っていた背広を自分の肩にあてて微笑って見せると、彼は無言のまま僕の正面に立った。
「どうかしましたか?」
「……そうしていると、本当に君は小柄だな」
 僕の手から背広を受け取り、ハンガーにかける。解いたネクタイと一緒にクロゼットに仕舞うと、僕を強く抱きしめてきた。
「榊さん?」
「君は。私を誤魔化せるとでも思っているのか?」
 耳元に唇を寄せ、言う。しかしその声には怒気はなく、寧ろ悲観しているように聞こえて。僕はクスクスと笑うと、彼の胸を押しやってその顔を覗きこんだ。
「勿論。思ってますよ」
 背伸びをして、太い首に腕をかける。僕の返事に黙り込んだ彼に薄く笑うと、深く口付けた。彼に、それ以上のことを考えさせないよう。そして、僕自身、今以外を考えないよう――。
(2010/07/29)
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