771.水鏡(はるみち・ウラみち) ※569.バックトゥリターンと関連
 夜の湖。昼と変わらず、そこには反転した世界がある。きっと手を伸ばせば触れられる、十三夜。せめて幻だけでも壊してしまえればと近づくと、水面に映った自分の姿に息が止まった。
 ネプチューン。
 思わず、自分の着衣を見直してしまう。勿論、変身なんてしていない。それなのに。左利きの私はコスチュームを身に纏い、哀しげな表情で私を見つめていた。いいや、哀しいと取りたいのは私の身勝手で、もしかしたら恨めしげな色なのかもしれない。
 けれどその姿も私の罪悪感が見せているものに過ぎない。現世にネプチューンなど存在しない。いるのは、ネプチューンと仮に名乗っている海王みちるだけ。
 あなたは私。これは幻。私は、はるかとは違う。
 はるか。その名前を思い出した途端、私の胸は鉛を含んだように重くなった。胸元をおさえ、喘ぐように呼吸を繰り返す。避暑地の空気は澄んでいるはずなのに、吸い込む酸素はただ息苦しさを悪化させて。
「みちる」
 突然聞こえてきた声に、体をビクつかせる。それでも動揺を悟られまいとなんとか笑みを作った。けれど、どうしても彼女を振り向くことが出来なかった。そこにいる私たちから、目を離せない。
 どうして。
 今宵は満月ではない。それなのに、水面に映る彼女の姿は、隣に映る私と似合いの姿をしていた。
 ウラヌス。どうして、貴女が。それとも、これも私の罪悪感が見せている幻だというの。
 混乱は、顔を上げれば解けることが分かっていながらも、どうしても二人から目が離せない。
「どうかした」
 何も言わずにいるネプチューンに、あの人が優しい声をかける。少し不安げな表情で隣に並び、ゆっくりとネプチューンの肩に手をかけ、安心させるように抱き寄せようと。
「嫌っ」
 ネプチューンに触れているあの人の手を振り払い、その胸にしがみつく。視界の端にでも湖が映らないよう、強く目を瞑って。あの人の温もりと匂いを、体に感じる。
「どうしたんだよ、みちる。言ってることとやってることがちぐはぐだぜ」
 肩に触れる手。降ってる優しい声。その感触も声色も同じものなのに、決定的な何かが違う。
 違う。そうじゃないわ。こっちが正解なの。
 顔を上げ、彼女を見つめる。震える声で名前を呼ぶと、彼女は甘美な囁きと勘違いしたのか、私の唇に触れた。伝わってくる優しさが、胸に澱のように沈んでゆく。
「みちる。幾ら夏でも、ここは避暑地なんだぜ。夜は冷える。夏風邪なんて馬鹿なものをこじらす前に、早く戻ろう」
「風邪をひくのは、いつも貴女の役目じゃない」
「酷いな」
 笑い合い、指を絡める。紛れもない、愛しい人の手。胸に沈んでいたはずの彼女の優しさは、いつの間にか溶け出し私の全身に行き渡っている。
 随分と都合がいいのね。
 自嘲し、目の端で湖を見る。そこにいる二人は、互いだけじゃなくこの時代とも似合いの姿をしていた。
 望月まで、あと二日――。
(2011/08/17)
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