780.大入り満員(はるみち)
 ノブの回る音。微かな音を立ててドアが開けられると、薔薇の香りが広がった。淀みない足音の後、鏡越しに大きな花束が姿を現す。
「無事、ファイナルか」
「……入ってくるときはノックしてと言わなかったかしら?」
 鏡に映る深紅色に向かって微笑むと、正面に持っていた花束を下ろしたはるかが口元を釣り上げた。鏡越しに私を見つめたまま、耳元に唇を寄せる。
「ノックしないと不味い事情でもあるのかな」
「着替え中かもしれなくてよ?」
「いつかのように?」
「……意地悪ね」
 振り返り、口付けを交わす。何気なくドアに視線を向けると、気付いたのか、はるかが花束でそれを遮った。
「楽屋に鍵を閉めないでいるのは無用心だな」
「そうね。鍵を閉めておけば、誰かさんもノックせざるを得ないでしょうし」
「……意地悪だな」
 苦笑するはるかを微笑で交わし、その手から花束を受け取る。薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ眩暈がした。
「せつなとほたるは?」
「今頃、座席でパンフレットでも眺めてるさ」
「ここまで連れてくればよかったのに」
「遠慮したんだろ」
「誰かさんはいつも無遠慮に本番直前に押しかけるのに?」
「そうじゃなくて……。なんだか、今日はいつにも増して意地が悪くないか?」
「今日に限って、よ」
 呆れ返るはるかの表情を隠すように薔薇の中でクスクスと笑うと、突然腕を掴まれた。一瞬開けた視界に影が重なり、遅れて唇に温もりが届く。
「ツアーファイナル、おめでとう」
 離した唇の変わりに額を合わせると、囁くような声ではるかが言った。ばかね。心の中で呟き、もう一度キスを交わす。
「本番はこれからよ」
「終わってからだと、スタッフに先に言われちゃうだろ?」
 はるかの口から放たれる、予想していた通りのセリフ。口調すら予想していた通りのはずのそれに、自分の頬が熱くなっていることに気付き、また、ばかね、と繰り返す。
「……どうせ馬鹿だよ、僕は」
 拗ねたような声。目が合った途端わざとらしく目をそらしたはるかに、私は初めて自分の言葉が声になっていたことに気づき、頬の熱が少しだけ上昇した。
(2010/11/02)
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