786.苦渋の決断(蔵飛)
「あら。あなたは……。もう何十年も前に秀一といるところを見かけた気がするわ。でも、不思議ね。その頃と何も変わってない。もしかして、息子さんか何かかしら?」
 花を持って病室に現れた少年は、何も言わずに老婆に花を渡した。
「いい匂い。あの子の好きな花だわ。もしかして、あの子に頼まれて?」
 花束に顔を埋め、嬉しそうに目を細める。問われた少年は、ただ静かに頷いた。
「ありがとう。それと、ごめんなさいね。あの子、仕事が忙しいらしくて。あなたにこんなお遣いさせちゃって」
 ちょっと待ってね。老婆は手招く仕草をすると、サイドテーブルの引き出しから財布を取り出した。あるだけの紙を――と言っても3枚しかなかったが――抜き取り、少年に握らせる。
「ごめんね、これだけしかないけれど。もらって」
「……あ」
「いいの。もう私は使わないから」
「そう、ではなく」
「秀一に、宜しくね」
 何処にそんな力があるのか。老婆は少年の手を強く握りしめると、何かを願うように微笑んだ。

「母に、会ってきたそうですね」
 あの頃から、なんら変わらない姿。蔵馬の体に妖狐の妖気が戻り始めてから、蔵馬が年を取ることはなくなった。いや、それでも少しずつ年は取っているのだが、妖怪の青年期の長さは、人間のそれとは比較にならないほど長い。
「どうして分かる?」
「あなたの体から、病院の匂いがします」
「……狐め」
 それでも蔵馬は、日常生活を送るときはそれなりの年齢に見えるように姿を変えている。元は狐だからなのだろう。ただ専門は化けることではなく植物を操ることなので、妖怪や霊力の高い者には容易く見抜かれてしまう。死期が近いものも、同様。そのため、蔵馬はここ1ヶ月、母親の見舞いには行っていない。おそらく、この先母親が死ぬまで、会うことはないだろう。
「何しに行ったんですか?」
「花を、届けただけだ」
「お金は?」
「お前の財布から抜いた」
「……随分と、人間界の暮らしになれたんですね」
 顔を歪めて笑い、俺の唇に自分のそれを重ねる。押し倒そうとする蔵馬の手に、紙切れを握らせた。
「何?」
「駄賃らしい。お前が花を届けるように頼んだのだと、勘違いしていた」
「正さなかったんですか?」
「その必要もないだろう」
「優しいんですね」
 微笑まれ、胸が痛む。
 本当は、花を届けることが目的ではなかった。蔵馬の正体を、あの母親に告げるつもりだった。そうしなければ、蔵馬はこの先一生、母親を騙し続けた罪を背負うことになる。俺は、それがどうしても許せない。
「言わないのか?」
「何を?」
「お前の罪を」
「それはオレが背負っていくべきものですから」
 顔を歪め、それでも無理に微笑む蔵馬に苛立ちを覚える。
「お前は」
「言えなかったんでしょう? オレの正体」
「蔵馬」
「優しいんですね、あなたは。本当に」
 紙切れをサイドテーブルに置き、今度こそ俺の体を押し倒す。優しく唇を重ねてくる蔵馬に苛立ち、その端に歯を立てた。
 驚いて身を離す蔵馬に笑いながら、自分の唇についた血を舐め取る。
 優しくなどない。俺はただ嫌だっただけだ。蔵馬の中に罪と言う形であれ、母親がい続けることが。許せなかっただけだ。
 言えなかったのは、どう説明をしたらいいのか分からなかったから。実際に蔵馬を見せれば信じてもらえるだろうが、俺が口で説明したところで、あの母親は信じないだろう。その事を、失念していただけだ。蔵馬の与えた夢を、壊したくないと思ったからでは決してない。
「次は言う」
「だったら次は、予め、花代をあなたに渡しておきますよ」
 クスクスと笑いながらまた口づける。鉄臭い人間の血液。妖怪のそれより美味だと聞くが、今ではもう、特別美味いとも思わない。それは蔵馬の体が妖化していっている証なのか、それとも……。
 どうでもいいことだ。不味くなければ、構わない。
「蔵馬」
「ん?」
 忘れろ。今だけは。騙し続ける罪を。俺のことだけを考えろ。などと、言えるわけもない。
「……早くしろ」
 代わりの言葉を吐き出す俺に、蔵馬はややあって微笑むと、首筋に舌を這わせてきた。もうすぐで俺は、蔵馬のことしか考えられなくなる。
 蔵馬もそうなればいいと、心底思った。俺を抱いている間だけは、せめて。俺のことしか考えられないようになればいいと。そう思いながら。俺は強く、蔵馬を求めた。
(2011/07/11)
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