793.スタンダード(はるみち)
「はるか」
 声と共に、視界の両脇から白い腕が伸びてくる。
「なん、だよ。急に」
「いつも貴女に抱きしめられてばかりだから」
「だから?」
「あったかいのね」
 僕がいつもしているように、耳元でささやき、うなじに顔を埋めてくる。回された腕は柔らかく僕を包んでいたが、それを解く気にはなれなかった。
 首元に感じる彼女の吐息に、僅かに身を捩らせる。
「くすぐったいな」
「あら。私だっていつもそうよ」
「へぇ」
 そうだったかな。呟いて思考をめぐらせると、背もたれ、と彼女の声が遮った。
「何?」
「邪魔ね」
 椅子越しに抱きしめているから、二人の間には木製の背もたれが確かに距離を作っている。けれど、言われるまで、触れ合う箇所が僅かであると言うことに、僕は気づかなかった。
 ただ、指摘された途端、背中に寒さを感じてしまう。
「移動するかい?」
「我慢するわ。こうしていたいの」
 緩かった手が、少しでも距離をつめようとするように僕を強く抱く。それなのに、僕の手は未だ雑誌のページを抑えている。
「……みちる」
「なぁに」
「手」
「手?」
「君だけが触れてるなんてズルいだろ」
 呟いて、雑誌を閉じる。
 指先を絡めようと彼女の手に触れるけれど、相変わらず彼女は僕の体を解放しようとはしなかった。
「あら。じゃあいつも貴女はズルいのね」
「知らなかった?」
「知らなかったわ」
「じゃあ覚えておくといい。僕は君を愛することにかけては、いくらでもズルくなれるんだ」
 無理矢理に彼女の手を剥がし、指を絡める。また、左手を口元に持ってくると、その甲にキスを落とした。彼女の腕から、力が抜けてゆく。
「……ねぇ」
「ん?」
「やっぱりもういいわ」
 するりと僕から離れてゆく手。
「みちる?」
 強引さに怒ったのかと椅子を引き振り返ると、彼女は待っていたとばかりに僕の膝に腰を下ろした。
「今度はなんっ」
 僕の言葉を遮るように口を塞ぎ、離れた唇を今度は喉元に寄せてくる。
「あったかい」
 手を繋ぎ、僕の体に身を委ねる。僕の視界には彼女の表情は入らないけれど、その声が充たされたそれであることは読み取れた。
「ったく。君って人は」
 呟いて繋がっていない手で彼女の体を抱き寄せる。少し、足が痺れるような気配はあったけれど、聞こえる呼吸がとても穏やかだったので、僕は何も言わずぼんやりと窓の夕日を眺めることにした。
(2011/11/25)
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