799.方向音痴(はるみち)
 前が見えなくなるほどの桜吹雪。その恐ろしいほど美しい景色に見惚れていると、腕を強く掴まれた。突風に乱される髪も気にする余裕もないその姿は、何かに怯えているようだった。
「みちる?」
「怖い」
 僕が名を呼ぶのとほぼ同時に、彼女は言葉を発した。木々はまだざわめいているのに、その声は妙にはっきりと僕の耳に届いた。シャツ越しに、彼女の爪が食いこんでくる。
「確かに、これだけの景色だと畏怖すら覚えるよな」
「そうじゃ、ないわ」
 伏せていた顔を上げ、僕を見つめる。その目がいつもより多く水分を含んでいるように見えるのは、気のせいじゃないだろう。
「こんな風に視界を塞がれたら。何処に行けばいいのか分からなくなりそうで。貴女ともはぐれてしまいそうで、怖いの」
「みちるって、そんなに方向音痴だったっけ?」
「はるか」
「冗談さ」
 彼女の髪についた花びらを取り払った手を滑らせ、頬に触れる。腕は掴まれたままだったから、少し無理な姿勢で唇を重ねた。
「何処に、なんて。僕たちは未来にしかいけないんだ。だから、未来に行けばいい。簡単だろ?」
「貴女のいない未来に行くくらいなら、私は過去に戻るわ」
「それでも僕は未来に行く。みちるは、僕を独りにする気なのか?」
「そんな」
「心配するなよ。大丈夫」
 みちるの手を解かせ、指先を絡めて繋ぎ直す。安心させるように微笑むと、視界に入るように繋いだ手を軽く持ち上げた。
「こうしてれば、例えどちらかが手を緩めたとしても、はぐれることはないさ」
「でも」
「僕を信じて」
 繋いだ手に力をこめる。瞬間、再び突風が吹き、二人の間を無数の花びらが通り過ぎていく。恐怖はまだ消えていないのか、彼女は自ら強く深く指先を絡めてきた。
「ほら。大丈夫だろ?」
 開けた視界。目を合わせて微笑うと、彼女もようやく微笑んだ。僕の隣に並び、肩に頬を寄せるようにして桜を眺める。
「綺麗ね」
 触れ合う腕に彼女の手が添えられる。指先はずっと絡めたまま。
 横目で見た彼女の目には、まだ不安が見て取れたけれど。彼女が、なんとか未来へ向かおうとしているのも分かったから。
「ああ」
 僕はそれを見ない振りをして、静かに頷いた。
(2011/04/16)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送