814.最終防衛線(はるみち)
「舐めて」
 玄関を開けた僕の胸に飛び込んでくるなり、彼女はそんなことを言った。
 見上げる目が潤んでいるのは、ほのかに赤い頬のせいなのか、それとも……。
「な、にを」
「だって、少しの傷なら舐めておけば治るんでしょう?」
 無理矢理につり上げた口元。僕の袖口を掴む手は力を入れすぎているせいではなく震えている。
「怪我をしているのか?」
「そうよ」
「何処」
「ここ」
 そう言うと彼女は僕の左手を自分の胸へと導いた。触れた瞬間、身を引こうとしたが、そのことで僕の何かを読まれるかもしれないと思い、黙って彼女に従った。
 柔らかい感触。確かな温もり。頭の中で鳴り響く鼓動は、一体どっちのものなのだろう。
「ねぇ、はるか。お願い。舐めて?」
「胸を?」
「……痛いの。貴女を想うと、心が痛むのよ。きっと傷があるんだわ」
 胸の形が変わるほどに僕の手を強く押しつけ、額を肩へとのせる。
 どういうつもりで、そんなことを言っているのか。僕に分かるくらいだから彼女自身気づいているはずなのに。
 垂れ下がっていた右手を持ち上げ、彼女の髪を撫でる。その行く先をどうするかに悩み、結局微かに震えている肩を掴んだ。
「心には、触れられない。残念だけど君の頼みは聞き入れられないな」
 そっと彼女を引き剥がす。見上げる瞳はもうすぐで滴を落としそうなほどに揺らいでいる。
「はるか」
「それとも。君の心を見せてくれるとでも?」
「……貴女が、それを望むのなら」
 右手が、頬へと伸びてくる。左手すらも僕の手から離れ、制服のスカーフを外した。
「冗談、言うなよ」
 喘ぐように言い、視線をそらす。口の中が粘つく感触に、ネクタイを緩めため息をつく。
「はるか」
「こんな所じゃなく、奥で。コーヒーでも飲もう。……泊まってくんだろ?」
「いいの?」
「化膿でもしたら困る」
 僕には、どう足掻いたって治せないから。せめて、これ以上傷が広がらないようにしてやるしかない。
 僅かだけれど表情を明るくした彼女に、罪悪感がこみ上げてくる。
 卑怯者。誰かが叫ぶ。それでも。
「はるか」
 探るように伸ばされた手に指を絡め、奥の部屋へと進む。
 ごめん、みちる。
 それでも僕は、やっぱり。戦士として、一歩でも君に追いつくために。この一線だけは、決して――。
(2011/09/23)
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