822.絵画的表現(はるみち)
「ただいま」
 誰もいない部屋に呟く。虚しく帰ってくる自分の声と静けさには、一人暮らしを始める前は平気だったのに、今では耐えられないものがある。家にいた頃は、もっと広い場所で、たった一人きりだったのに。
 あの人のせいね。あの人といる時間が、楽しすぎるから。
 吐きたくなる溜息を飲み込んで、絵の具の匂いの染み付いた部屋へと向かう。
 まだ二冊目。あの人の写真を貼り付けたアルバムには遠く及ばない数のスケッチブックを広げ、今日見てきた景色を鉛筆で描いてゆく。
 ふたりで出掛けたときは、出来る限りその風景を描くようにしている。鉛筆で線を描き、その上に薄く水彩絵の具を載せていく。油絵にしないのは膨大な時間が必要になるから。それと、この先のことを考えて、少しでも場所のとらないものにしたかったから。写真にしないのは、主観が入ってくる分、絵のほうが思い出に近く仕上げることが出来るから。
 写真は現実にあるものしか映し出さないけれど、絵はそこに心を加えることが出来る。私の、あの人への想いを。
 それでも、一日の総てを描き留めることは不可能で。せめて記憶に残しておこうと思っても、掬い上げた水のようにどんなに注意をしても少しずつ零れ落ちていってしまうから。
 ――また、一緒に行ってくれるかしら?
 ――もちろん。何度でも。
 別れ際、あの人は恐らく軽い気持ちで交わした約束を、私は。忘れられないくらいに刻み込むまで、それこそ、きっと、何度でも……。
(2011/01/24)
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