832.お決まりのジンクス(はるみち) |
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手のひらに、3回、文字を書いて飲み込む。ステージの袖で、必ず行う私だけのおまじない。 共演者やスタッフには、意外そうな目でいつも見られる。私でも緊張するのか、そんな子供じみたまじないを信じているのか、と。 子供じみたと思われても、実際に私はまだ子供だし、緊張感は適度に持っていないと良い演奏は出来ない。 だから。 「……君のそれ、『人』じゃないよね?」 「はるか。どうして客席にいないの?」 「君のファンだって人に譲ったんだ。だから、今日はここで君の横顔を見ていようかと思ってね」 視線が私の横を通り抜け、まだ明るい客席へと向けられる。私が彼女のために用意した席には、最近彼女と親しくしている女性が座っていた。 「チケットは二枚、渡したはずよ?」 「意地の悪いことを言うんだな。隣を見ろよ。あれが彼女のフィアンセ。大体、僕が君以外、隣に誰を座らせるっていうんだよ」 なんでもないことのように、さらりと口にしたその言葉に、空気を抜かれたように頬が緩む。折角、おまじないで適度に高めた緊張も、溜息と共に流れていく。 「もう」 「何?」 「……また、おまじないしないといけないじゃない」 彼女に背を向け、手のひらを広げる。指先を左手につけたところで、感じた視線に振り返ると、彼女が覗き込んでいた。 「見ないで」 「別に構わないだろ。それとも、効力が消えるのか?」 「そういうわけじゃないけど」 「というか、なんて書いてたんだ?」 人って文字じゃなかったよな。呟いて、少し前の私を振り返る。私は、目の前にいるのに。そう思った途端、もっと効果のありそうなおまじないを思いついた。 「ねぇ、はるか」 「え?」 幕を掴み、二人の周囲を素早く覆う。驚く彼女に背伸びをすると、僅かに開いたその唇に触れた。 「みちる、さん?」 「おまじない。どうせなら、文字じゃなくて本物を飲み込んだ方が効くかもしれないと思ったから」 含んだように微笑んで、彼女の横を通り過ぎる。後ろで私たちを見ていたスタッフは、いつもと変わらない様子でヴァイオリンを渡してくれた。 客席の灯りが消え、かわりにステージが明るくなる。 「みちる」 「行ってくるわ、はるか」 何かを言いたそうな彼女にもう一度微笑むと、私は深呼吸をしてステージへと向かった。 |
(2011/01/22) |
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