846.生きている実感(はるみち)
 私を傷つけて。と、彼女は言った。今ここに生きているという実感が欲しいの。
 何処に仕舞っていたのか、月明かりを受けて鈍く光るナイフを僕に持たせて、露わになっている自分の胸に切っ先を向ける。
「僕の温もりじゃ、足りないのかな?」
 彼女に手を掴まれたままナイフを下ろし、唇を寄せる。温もりを伝えるように深く絡めたかったけれど、彼女が身を引いたため、それは出来なかった。今のこの状態で、彼女の上に倒れ込むのは危険だ。
「はるかは優しすぎるの」
「何?」
「痛みの方がその何倍も、生を実感できるの。苦しみの方が。だって……快楽なんて、夢見心地でしょう?」
「……今日は随分と、過激なんだな」
「貴女はいつも穏やかね」
 目を細め、薄く微笑う。一瞬、背筋が凍ったのは。恐怖を感じたからじゃなく、美しいと思ったからだ。目の前の少女を。そして、この先の光景を。
「傷痕、ちゃんと残して?」
「勿体無い気はするけど」
「お願い」
 微笑んだまま乞われ、逆らえない命令のように僕は静かに頷いた。彼女の体を押し倒し、その上に跨る。白い肌に刃をあてがったところで、ノイズが過ぎった。
「じゃあ、今日はこれでお預けなのかな」
「えっ?」
「だってそうだろ。折角痛みを与えても、その後で夢み心地になったら意味がない」
 囁いて、今度は僕が薄く笑ってみせる。
「意地悪なことを言うのね。でも、そうね……。それなら」
 痛くしてみて。唇だけで、声にはなっていなかったけれど。僕には確かにそう聴こえた。
「……やって、みるよ」
 何もかもを飲み込むような微笑みに見惚れながら。僕の手は操られたようにその刃先を滑らせる。夢見心地の中で――。
(2011/02/06)
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