888.月に手を伸ばす(はるみち)
 窓辺に座り、月明かりに照らされた青白い掌をじっと眺める。暫くして顔を歪め、右手を掲げる。
 その先にある物を、掌中に出来たかどうかはここからでは分からない。握られた拳は、力なく下ろされて。
「はるか」
 そんな、幾ら手を伸ばしても触れられないもの。
 正体が分かってから、はるかは冗談でもあの子を口説かなくなった。勿論、触れることも。けれど、以前よりもその願望が強くなっていることは分かる。
 だからでしょう? それまでは眺めていただけの月に、手を伸ばすようになったのは。
「はるか」
「ああ。みちるか」
 呼んだの、二度目よ。
 不満を飲み込んで、はるかの前に立つ。躊躇いもなく伸ばされた手に触れ、自分の頬へとあてる。
「何か、変だぜ?」
「貴女は相変わらずなのね」
 自分の手が穢れているから、大切なあの子には触れられない。それなら、こうしている私は、いま倖せなのかしら。
「もしかして、怒ってる?」
「愛しているだけよ」
 開いている左手ではるかの頬を包む。視線の先にある、緩いカーブを描く唇に触れたい衝動をなんとか抑え、意味深に微笑んでみせる。
「なんだよ」
 わけがわからないといった風に口を尖らせるはるかに、今度は声を出して笑い、その手をすり抜ける。早く背を向けてしまいたくて。
「みちる」
「帰るわ。せつな、待たせているし」
 振り返らずに言う。本当は、せつなには泊まると告げてあるけれど。今、この顔をはるかに見られるわけにはいかないから。
「そんなの、連絡すれば」
「帰るわ」
「みちる」
 これは、倖せなのかしら。
 背中に温もりを、耳元に吐息を感じ、体の自由を奪われる。
 これは、倖せなのかしら。
 繰り返される疑問。どうするかは自分次第だと分かっているのだけれど。
「はるか」
 躊躇いに震える手を持ち上げ、強く絡みつくはるかの腕を掴む。
 私には、触れることが出来る。私なら、触れ合うことが出来る。例えそれが、はるかにとって代替行為だとしても。私にとってはたった一つの真実。
 だとするのなら、私は……。
「はるか」
 腕をやんわりと解き、踵を返してはるかと向かい合う。私を見つめる哀しげな微笑みの、その後ろにある月に。私は――。
(2011/08/08)
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