889.初雪の日(蔵飛)
 今夜は初雪。しかも、大雪。そんな予報が入り、誰もが定時で会社を上がった。それはオレも同じ。
 外は明るかった。雪雲のせいだろう。吐く息は白いはずなのに、空の色とと同化して見取ることが出来ない。
 時折吹く風が肌を刺すように冷たく、鼻の頭が隠れるようにマフラーを巻き直し、帰路を歩む。
 飛影は今頃何をしているだろう。
 信号待ちの間、目を瞑って飛影の妖気を探してはみたけれど、欠片も感知できなかった。きっと、今日は人間界に来ないつもりだ。
 折角早く帰れたのにな。
 年末に向けての準備で最近は帰りが遅くなっている。だからといって、年末早く帰れるのかといえばそういうわけでもないのだが。とりあえず、社に泊まることだけは回避できる。
 義父の会社に入ってまだ2年。それでも義父をはじめ他の社員たちですらオレを次期社長として認めてしまっている。
 オレは子を成す気も、誰かを娶る気もない。オレの代で会社は終わりますよ。そう告げると、今更世襲制なんて時代遅れだと返された。なら何故オレを次期社長候補に挙げているのかと問うと、能力があるからだと笑った。
 会社を継ぐつもりはない。ただ、この仕事は面白く、人間として生きるのであればここで働きたいと思う。独立なんて。今のオレには、名を残す必要はない。
 かわる信号に、ため息をついてから歩き出す。ゆっくりと歩いているつもりもないのに、みなオレを追い抜いていくと思えば、露出している頬に冷たいものが触れた。
 降って来たか。ひとりごち、しかし歩調は変えなかった。

 雪は、嫌いじゃない。雪が降るとみなが優しくしてくれた。
 神だと崇めていても、所詮は獣。神社に供え物はするものの、誰も近づこうとはしなかった。けれど、雪の降る日は違った。オレからすれば冬の雨と大差はないのだが、村の者たちからすると雪はやはり大ごとなのだろう。
 毎日のように参拝に来ていた老女がオレを呼び、家まで連れて帰る。今にも消えそうな囲炉裏の火。隙間だらけの家は、屋代の中と大して変わらなかったが、薄汚いオレを構わず招き入れた老女の煎餅布団はあたたかかった。
 老女と出会う前の冬の記憶はオレにはない。老女が死んでからの冬には既に自分で暖をとれるようになっていた。魔界で。ただの狐ではなく、妖狐として。
 だからオレには、雪に対してあたたかな思いでしかない。
 けれど、飛影は。
 辛い思い出しかないのだろう。しかない、のか、それだけが他の雪を吹き飛ばすほどに強く記憶されているのか。

 初めて飛影と雪を見た日。街を行く人たちと同じように、オレも僅かな興奮を持って空を指差した。けれど飛影はオレの言葉に何の反応もせず、ただ真っ青な顔で恨めしそうに空を睨みつけていただけだった。
 その夜、飛影はうなされた。触れるとその肌は熱く、左腕の包帯と額あては気づいた時には灰になっていた。ベッドに火が移らなかったのは、幸いだった。
 左腕の中で暴れる黒龍。起こそうと肩を揺すると、殺してやる、という叫びと共に、赤い瞳が姿を現した。
 何が起こったのか理解できないのか、暫く呆けている飛影に、両掌の火傷を隠し微笑みかける。
 包帯、燃えちゃいましたね。
 ベッドから降り、替えの包帯を取り出す。無言で腕を出す飛影に、手の痛みを堪え封を巻きつけていく。
 悪い夢でも。
 貴様には関係ない。
 危うく火事になるところだったんですけどね。
 苦笑するオレに、ならば出てゆくと包帯を振り払い窓際に立ったが、引かれた厚いカーテンを開けたところで、飛影の手が止まった。
 窓の外は大雪。屋根にも厚く降り積もり、夜だというのに白い世界が広がっていた。
 部屋の温度、下がりますから。
 カーテンを閉めるオレに、舌打ちをしてベッドへと戻る。再び無言で腕を差し出してくるから、思わず苦笑した。
 包帯を巻き終えると、飛影はオレを求めてきた。その日は祝日で、もう既に一度していたのだが、寒さのせいではなく震える小さな手にオレは自分の指を絡めた。
 あの時飛影が視た夢の内容をオレは聞いていない。だが、氷河の国のそれであったことは確かだろう。恐らくは、地上へと捨てられる、夢。
 生まれてすぐに生きる目標が出来たことが嬉しかったと、一度だけ過去を語ったときに飛影は言っていたが。
 恐怖も少なからずあったはずだ。いや、だからこそ、恨みを抱いたのだろう。

 暗い玄関。ドアノブは手袋越しでも冷たいと感じる。それでも、灯りを点けるとそれだけで温度が上がったような気がするのは、誰しもそこに他人の温もりがあることを知ってるからだ。
 飛影はずっと独りで生きてきた。炎は確かにあたたかいけれど、人工的なこの灯りに、温もりを感じることはあるのだろうか。
 もし、何も感じないのであれば、オレがこれから温もりと結びつけて記憶させていけばいい。そう思う。思いながらも、体はPCへと向かい、持ち帰った仕事を始める準備をしている。
 人間として生きることと、飛影と共に生きること。今は辛うじて共存できているけれど、どちらかを選択しなければならなくなったとき、オレは一体どちらをとるのだろうか。
 どちらを――。

 あいしてる。オレは言った。口ではなんとでも言える。鼻を鳴らし、飛影が返す。
 だから体で示してる。
 こんなもの、性欲さえあれば誰だって出来る。
 だったらオレはどうすればいい。
 何も。俺は貴様から愛情など望んでいない。

 それならどうして、あの日オレを見つめる瞳はあんなにも揺れていた。
 背に回された手は快楽の中、離すまいと必死で。
 愛を囁くたびに小さな体は強張って。

 嘘。

 呟いて、立ち上がる。カリカリと音を立てて起動していたPCは静まり返り、早く仕事をしろと無言の圧力をかけてくる。
 この先もずっと、変わらず飛影に温もりを与え続けてゆくと誓えないのであれば、オレの行動は逆効果になるかもしれない。だが。例え飛影が更に雪を嫌いになったとしても。今は彼の傍にいたい。遠い昔に、老女がそうしてくれたように。
「飛影」
 PCを消し、まだぬくみの残るコートを羽織る。恐らく飛影のいる場所には、雪は降っていないだろう。寒くもないのかもしれない。それでも、オレは手袋すら身につけて部屋を出る。
 何故わざわざ雪のある場所に行かなければならないんだと、不満げに言う姿が目に浮かぶ。それでもオレは、どんなに抵抗されても飛影を部屋に連れてくるだろう。そして。遥か昔、老女がオレにしてくれたように、飛影の中に一刻でもあたたかな雪の記憶を――。
(2011/10/23)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送