信じられないような光景を、目にした。
 どんな暑い日にでも涼しげな顔で練習をしているヒトが、ランニングでもしてきたのだろうか。汗だくで壁に向かってボールを打っていた。いつもの笑顔も、そこにはない。その代わり、滅多に見ることができない蒼い眼が、妖しげな光を見せていた。
 一通り練習が終わったのだろう。動きが止まった。俺はナゼか、息を潜めていた。隠れる必要なんて、どこにもないのに。
 すごい汗。ベンチに座り、頭にタオルをかける。肩で息をしていた。試合でもこんな姿は見たことがない。必死、そんな言葉が当てはまるような姿。本気なんか見えなくて、いつでも余裕で構えている。それがあのヒトだと思ってたのに。
「……隠れてないで、出てきたら?」
 俯いたままなのに、酷く静かなその声はナゼか響いた。顔を上げる。鋭い眼に捉えられ、俺はナゼか動けなくなってしまった。足が、竦む。
「分かってるんだよ。さっきから君が僕を見てることくらい。ねぇ…」
 立ち上がる。駄目だと思い、俺は一歩足を踏み出した。
「乾。」
「――え?」
 意外な名前に声が漏れてしまい。俺は慌てて両手で口を押さえた。あのヒトの後ろから、ビデオカメラを手にした乾先輩が出てきた。
「まさか気づかれているとはな、不二」
「……気配も消せないようじゃ、いつまで経っても僕のデータは取れないよ」
 先輩はオレを見ていたわけではなかったらしかった。ホッと胸を撫で下ろし、踏み出した足を元に戻した。
 乾先輩は、不二先輩をベンチに座らせると、自分もその隣に座った。遠いけど、耳を澄ますと二人の会話が聞き取れる。
「気づいてたのなら、何故放っておいた?余裕か?」
「………さぁね」
「大分お疲れのようだな。笑顔を作る余力すらない、か」
「別に。君は僕のデータが採りたいんだろ?」
 クスリと微笑う。それはいつもの笑みではなく、酷く好戦的なものだった。あんな間近で見たら、俺だったら怖気づいてしまいそうだ。なのに、乾先輩はそれを同じような好戦的な笑みで返した。もっとも、こっちは間近で見たら引いてしまいそうな感じのものだったけど。
「……そんなんじゃ、ここで誰に押し倒されても文句は言えないな」
 言うと、乾先輩は不二先輩の顎を掴んだ。そのまま、顔が近づいてって…。
「……なっ!?」
 驚きに声が出る。俺は慌てて口を押さえた。もう二度目だ。このままずっと口を押さえておこう。何が起きるか分からないし。というか、何で俺、こんなの見てるんだろ。
 ……でも。不二先輩は気になるし。なんか、胸の辺りがモヤモヤするし。
 それにしても。いつまでやってるつもりなんだ?
 二人は、まだ唇を重ねていた。二人は、というよりも、乾先輩は、だ。不二先輩のほうは、驚くほど無表情で。ただ、それを黙って受容してるだけのようだった。そのまま、乾先輩は石のベンチに無抵抗の不二先輩を押し倒した。
「抵抗する力は残って無い、か?」
「冗談」
 遠くからの横顔でも判る、先輩の眼の光。呟くと、先輩は乾先輩の身体を蹴り上げた。立ち上がり、痛みに顔を歪める乾先輩を酷く冷たい眼で見下ろす。
「いつだって、手塚を押し倒せるくらいの余力は残して置いてあるんだ」
 ……手塚部長?何で、あのヒトの名前が出て来るんだ?
「手塚は居ないのに、か?」
「煩いな。居なくてもいいんだよ。これは僕の自己満足なんだから。手塚がいつ帰っても良いようにしておきたいんだ」
「じゃあ、力は余ってるんだな」
「……邪魔者を排除するくらいは、ね。ねぇ。僕に殺されたい?それとも、即座にこの場から立ち去る?」
「……ま、あ、いい。今日のところはな。だが、どんなに思っていても手塚は居ないんだ。そんな淋しさ、無駄だと思う日が必ず来る。その時は俺が――」
「来ないよ、そんな日は。永遠に」
 不二先輩の確信を持った言葉に、胸の奥で確かな痛みが走った。俯いて、胸を押さえる。
 もしかしたらと思ってたけど。やっぱり俺は、不二先輩が好きなんだ。そして、不二先輩は…。
 胸の痛みを打ち消すように奥歯を噛み締めると、俺は顔を上げた。
 誰も、いない…?
「何やってるのかな、こんな所で」
「っじ、先輩…」
 耳元で聴こえた声に驚いて振り返ると、そこには、いつもの笑みを浮かべている先輩がいた。思わず、後退る。
「驚いた?」
 俺の頭を撫でながら、言う。何についてそう言っているのか理解らなくて、俺は先輩の顔を見返した。けど、先輩は俺から眼を離して、宙を仰いだ。
「幾ら天才でもね、努力には勝てないんだよ。100%力を出せないんだから、尚更だ」
「……本気、出せないんスか?」
「ん。まぁね」
 俺に視線を落とし、優しく頭を撫でてくる。二つしか歳は違わないのに、先輩から見れば俺はまだまだ子供で、恋愛対象にはならないんだろうな、なんて。こんな所で感じる。性別は、手塚部長とそういう関係なんだから、問題はないみたいだけど。……胸が、痛い。
「でも、それでも強いんだから、いいじゃないっスか」
「部としては勝てばそれでもいいかもしれない。でも、個人的に嫌なんだ。手塚に置いて行かれるのは、嫌なんだ」
 呟く、その苦しそうな顔に。俺はなんて返したらいいのか理解らなかった。見つめる俺の視線に気づき、無理矢理といったような笑顔を先輩は作った。俺の頭から手を離す。
「莫迦だと、思うかい?」
「……え?」
「君から見たら、きっとクダラナイ理由だと思う。誰かの…好きなヒトの為に、強くなろうだなんて」
「べ、つに。俺は、全国制覇できればいいだけっスから。どんな理由だろうと、アンタが強くなってくれればそれでいいっスよ」
 嘘だ。全国制覇はしたいけど、不二先輩にはもっと強くあって欲しいけど。その言葉は嘘だった。俺以外の誰かの為になんて、強くなって欲しくない。だったらまだ、自分だけの為にとか、そんな望みすら持てないとか、言ってくれた方がましだ。
「そう?良かった」
 だけど。先輩はそんな俺の気持ちなんて気づかない様子で、微笑った。
 嘘だ。また、思った。先輩はきっと俺の気持ちに気づいてる。多分、俺が気づく前からずっと。
「でも、気持ち悪いでしょ?男を好きだなんて。ああ、でも、手塚のことは悪く思わないでね。半ば僕が押し切ったような感じだから」
 苦笑する。その顔に、俺は俯いた。先輩が押し切ったと言うことは、部長よりも先輩の方がその想いが強いという証拠。
「……別に。アメリカ(向こう)にもそういう人いたし」
「そっか。それを訊いて、ちょっと安心したかな」
 ぶっきらぼうに言う俺を気にしない様子で、先輩はまた頭をくしゃくしゃと撫でてきた。酷いくらいに優しい手。
「安心?」
 見上げると、蒼い眼が優しい色をして俺を見ていた。
「君に軽蔑されたらどうしようかと思ってさ」
「?」
「気に入ってるって事。その強さに貪欲な所とかね。手塚に、少し似てるんだ」
 眼を細め、微笑う。優しい、というより、温かな笑顔。その眼には俺が映っているのに、先輩は俺を見てはいなかった。遥か遠くにいる想い人を見ている。俺にはそれが痛いほどわかった。
「……そう、っすか」
 胸の痛みに、泣きそうになる。これ以上先輩の眼を見ていたくなくて。俺はまた俯いた。
 沈黙。
 暫くそうしていると、溜息の音が聴こえてきた。
「ねぇ。もし良かったらさ。相手、してくれないかな?」
 腰を曲げて屈むと、先輩は俯く俺の顔を覗き込んできた。
「壁相手って言うのも飽きちゃってさ。君がよければ、だけど」
 気遣うような笑顔。乾先輩を追い払った時のような鋭さはない。どうやら本当に、俺はこの人に好かれているようだ。でもそれは、俺が手塚部長に似ているからで。本当の俺を見て言ってるわけじゃない。
 じゃあ本当の俺を見たら。先輩はどう思う?嫌う?それとも…?
 でも、どちらにしても、今の曖昧なままでは居たくない。誰かに重ねられると言うことは、無視しているのと同じだ。それだったら。まだ、嫌われた方がましかもしれない。
 俺は深呼吸をすると、先輩の眼をしっかりと見つめた。その奥にある答えに気づいたのか、先輩は頷くと、背筋を伸ばした。
「……でもいいんスか?あんた、疲れてるんじゃ…」
「聞いてたでしょ?乾(ジャマモノ)を排除できるくらいの余力はあるんだ」
 ラケットを持ち、大きく伸びをする。俺を見る眼には、いつかに見せた好戦的な光があった。さっきまでとは違う意味で、胸が高鳴る。愛しさと憬れ。この人に対して、俺は二つもの感情を持ち合わせている。
「それだけの力で俺に勝とうって?」
「一度くらいはガス欠になってみたいと思ってさ」
「……いいっスよ。しょうがない」
 余裕の笑みを見せる先輩に、俺も余裕の笑みで返すと帽子を深くかぶりなおした。
「本当の俺ってやつを見せてやりますよ」




「莫迦だと、思うかい?」
って。この科白の為に書いた話。
途中、乾不二じゃないよ。不二乾だよ。
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