99.記憶(不二幸)
 例えば。俺を呼ぶ優しい声とか、触れ合う優しい温もりとか。部屋を漂う優しい空気とか、伝わってくる優しい想いとか。そういったもの。そういったものは、眼を瞑るだけで簡単に蘇らせることが出来る。
 だけど、どうしても思い出せないことがある。何よりも好きなのに。
「幸村?」
 俺の視線に気づいた不二は、本を閉じると顔を上げた。真っ直ぐに見つめる俺に、少し戸惑ったように微笑う。
「どうしたの?」
「微笑って」
「……え?」
「微笑ってよ。俺の為に」
 毎日のように繰り返す言葉を吐くと、不二の手に自分のそれを重ね、キスをした。唇を離し、微笑って見せる。だが、不二は困ったように笑むだけで、俺の好きな笑顔を見せてはくれない。
「幸村といる時は、大抵微笑ってると思うんだけどな」
 呟いて、今度は不二の方からキスをした。
 確かに、不二は俺といる時の殆んどの時間、笑顔を作っているような気がする。だが、気がするだけで、俺にはそれが思い出せない。記憶に残っていないのならば、微笑っていないのと同じだ。
 それに、俺が見たいのは、そんな困ったような笑みじゃない。
「それじゃ駄目だ。ちゃんと微笑って」
「全く、我侭だね。一体何が気に入らないんだい?」
 膨らせた頬を、不二が指で突く。俺はその手を取って自分の頬に当てると、不二をじっと見つめた。
「ん?」
 何?と聞いてくる不二に、もう一度笑みをつくる。
「好き。不二も。その笑顔も。だから、微笑って。そうしたら、俺、もっと不二のこと好きになる」
 額をコツンと合わせる。暫くそのまま見詰め合っていると、もう片方の不二の手が伸びてきて、俺の頬を包んだ。
「それじゃあ、リクエストに答えないわけにはいかないな」
 言ってキスをすると、不二は優しく微笑った。その事に、胸がドキドキする。伝わってくる、優しい気持ち。俺は本当に不二が好きで。不二も本当に俺を好きなのだと実感する。
「好きだ」
「うん。僕も、幸村のこと好きだよ」
 呟いて、また、微笑う。
 その不二の笑顔を見ながら。もしかしたらこのドキドキを蘇らせるために、俺はわざと記憶から不二の笑顔を消去しているのかもしれないと思った。
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