112.もしも(不二幸)
 小さな物音で、眼を開ける。すぐそこにあるのは、穏やかな寝顔。その頬にそっと触れると、キスをした。
「…ん」
 呟いて、微笑う。その顔を見ていると、俺の中にも幸せな気持ちが溢れてきて。思わず、微笑った。
 だが、そんな気持ちになったのも束の間、俺は巨大な不安に飲み込まれてしまった。幸せになればなるほど強く感じる不安。『もしも』という世界。
 考えるだけでも恐ろしくて。自分に回された不二の手に指を絡めると、その胸に額を押し付けた。不二が消えないように。強く、抱きしめる。
「……幸村?」
 優しい声と共に、俺の背に腕が回された。顔を離すと、困ったような笑顔。
「泣いてたの?」
 唇を寄せ、涙を掬い取る。そのまま離れようとする不二の顎を掴むと、俺はキスをした。
「時々、思うことがある」
 腕を離し仰向けになると、俺は呟いた。隣で、不二も仰向けになる音が聴こえた。
「もし俺たちが、どちらか一方でもテニスに興味がなければと」
 地球というものから見れば、俺たちの距離なんて大したものではないのだろうが。偶然に出会うには、それでも広すぎる。
「不二なしの生活なんて今は考えられない。だが、きっと出会わなければ出会わなかったで、平然と普通の暮らしをしているのだと思う」
 それは俺だけに言えることではなく、不二もきっとそうなのだろう。
 もしかしたら、出会ったことで何かがズレたのだと考えた方が正しいのかもしれない。狂わされた運命。例え初めからそうプログラムされていたのだとしても。何かの故障で交差しなかった俺たちは、それでも生き続ける。
 そう考えると、俺は案外、不二なしでも生きて行けるのかもしれない。そして、それは不二にも言える。
「そう思うと、怖くなる。今が幸せであればあるほどに怖くなるんだ」
 今の幸せが、必要不可欠なものではなく。そして、俺たちがここにいることも絶対的なものではない。その事実が怖い。
「全く。これだから、君は」
 見つめる俺に、不二はまた困ったような笑みを見せると溜息混じりに言った。俺の頭を、髪を梳くようにして優しく撫でる。
「過去に対する『もしも』なんて。するだけ無駄だと思うよ。どんなに頑張ったって、一秒だって時間は戻せないんだし」
「だが…」
「だから、どうせなら未来に対する『もしも』を考えようよ」
 俺の額にかかる髪を掻き揚げそこに唇を落とすと、未来に対する『もしも』?と訊き返す俺に、不二は微笑いながら頷いた。
「そう。例えば、『もし僕たちが結婚したら、姓はどっちを名乗るか』とかさ」
 冗談とも本気とも判らない口調。俺は溜息をついた。
「馬鹿だな。俺たちは男同士なんだ。結婚なんて出来るはずがない」
「莫迦だね。僕たちは男同士だけど、海外にはそれでも結婚できるところが在るんだよ。確か、アメリカのどっかの州もその一つだったかな」
 言いながら、また微笑う。今度はもう、困ったような色はない。そして、俺の中からも不安の色が消えていることに気が付いた。
「だから、『もしも』僕たち二人が英語をペラペラに喋れるようになって、『もしも』二人でアメリカで暮らすお金と決心があるのなら」
 そのときは、結婚しよう。
 真っ直ぐに俺を見つめると、不二は真面目な口調で言った。その不意打ちのような告白に、俺は思わず顔を赤らめてしまった。不二の顔がゆっくりと近づき、唇が触れる。
「なんて。これなら、『もしも』を考えるのも怖くないでしょう」
「……そう、だな」
 額を合わせて微笑う不二に、赤い顔のまま頷くと俺も微笑った。


「じゃあ、そう言うことで。考えといてね」
「……何を?」
「結婚のこと。それと、僕たちの姓のこと」
「…………馬鹿」
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