188.忘れてしまった(不二乾)
 乾の様子が可笑しい。動きとかどことなくぎこちないし、反応も遅い。どうしたの、と訪ねたら、理由は簡単だった。
「……ノートを、忘れてしまってな」
 心なしか落ち着かない様子で言う。常に小脇に抱えているデータノートが無いからだろう。
 人間、そんなことでここまで変わるものなのかと思ったけど。まぁ、携帯依存症なる病気も出てきている昨今。データノート依存症なんて病気が在ったって可笑しくないのかもしれない。って、本当に?
「忘れたからってさ。どうせ中身はちゃんと頭に入ってるんでしょ?試合中はノート片手にってわけじゃないんだし」
「……そ、それはそうなんだがな。どうも、手持ち無沙汰な感じがしてな」
「ふぅん」
 覗きこむ僕の視線から逃れるように、彼は顔を背けた。苛立ってはいないみたいだけど、大分不安そうだ。朝練でこれなんだから、今日一日、もつかどうか。
 全く。僕まで不安になって来ちゃったじゃないか。
「ねぇ、乾」
 苦笑すると、僕は彼の前に回りこんだ。いつもはノートを抱えている腕に自分の腕を絡ませる。
「不二?」
「ノートの代わり。……には、ならないか。でも少しは気が紛れるんじゃない?」
「そう、かもしれないな。だが、こんなことしていて手塚に怒られないか?」
「大丈夫。威嚇しておくから」
「威嚇って…」
「……それにしても」
 彼を見つめると、僕は溜息を吐いた。データノートを忘れるとここまで可笑しくなるのに。僕を忘れることはしょっちゅうで、しかも平然としているんだから。なんだかなぁ。
「不二?」
「何か自分が惨めに思えてきた」
 大袈裟に溜息を吐き、彼から腕を離す。見上げると、彼はまた落ち着かない感じに戻っていた。それとも、僕が怒ってるから?まぁ、どっちでもいいや。
「僕って、乾の中ではデータノート以下なんだよね」
「何言って…」
「だってそうでしょ?僕がいなくても平気なくせに、データノートは傍になきゃ駄目なんだから」
 ラケットを握り、空いているコートへと歩き出す。が、数歩進んだ所で、肩を掴まれた。
「不二。何か、勘違いをしているぞ」
 必死、という顔で僕を見る。その情けなさに、僕の苛立ちは小さくしぼんでしまった。
「勘違い?」
「俺はノートを忘れたとは言ったが、データノートとは言ってない」
 その証拠に。言って僕の肩から手を離すと、彼は背中からノートを取り出した。念の為、中身を確認してみる。彼の体温で生温かくなっていたそれは、確かにデータノートだった。
「……じゃあ、乾がいつも持ってるノートは?」
「それは……」
 僕の手からノートを受け取ると、彼はそのまま口篭もった。顔が、みるみると赤くなっていく。
「……じの…だ」
 でかい体をもじもじさせながら言う。その姿を、キモイと思うと同時に可愛いとも思ってしまった。……重症だ。
「何?」
 抱き締めたい衝動を抑え、訊き直す。暫く沈黙があったが、彼は意を決したように息を吸い込むと、僕を見つめた。
「不二のっ…ためのノートだ。写真とか、校内新聞の切抜きとか…貼ってある…」
「………それ、ホント?」
「仕方が無いだろ」
 何が、仕方がないんだか。でも、否定をせずに顔を更に赤くしたってことは、本当なんだろうな。じゃあ、何だ。僕を忘れてたから落ち着かなかったってこと。…僕はここに居るのに?
「な、んだ?」
「いや。乾は生身の僕よりも、写真とかの僕の方が好きなんだなって思ってね。だったらこの僕は要らないってことだよね」
「違うんだっ」
 再び背を向けようとした僕に、彼は慌てて言った。僕の肩を掴み、真っ直ぐに見つめてくる。
「……何が違うの?」
「不二と四六時中一緒に居ることは出来ないから。だから…その…」
「そのノートを僕の代わりにしてるわけ」
「まぁ、そういったところだ」
 だからって。本物の僕を忘れてたらしょうがないじゃないか。とは思ったものの。顔を真っ赤にした巨大な生物の可愛さと、その想いに、僕は不覚にも嬉しくなってしまった。
 深呼吸をし、笑顔で彼を見つめる。
「じゃあ、今日はそのノートの代わりに出来るだけ僕が一緒に居てあげるよ」
 言うと、早速僕は彼の腕に自分の腕を絡ませた。
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