ある森を、一匹の猫が歩いていた。毛並みの美しい、可愛らしい猫。彼が歩けば、森に住む動物は皆振り返った。 だけど、動物達は振り返るだけだった。誰も、その猫に話しかけることはしなかったし、近づくことすらもしなかった。 その猫の琥珀色の眼は、いつもギラギラとしていた。しているように見えた。 その為、猫はいつも独りだった。 淋しくないと言えば嘘になるけれど、それでも構わないと猫は思っていた。こんな小さな自分を恐れるような弱い動物達と馴れ合う必要などないと。自分の眼に怯えて逃げていく動物達を見る度、そう繰り返していた。 ある日、いつものように猫が独りで森を歩いていると、信じ難い光景に出くわした。 猫の視線の先では、大きな熊が、動物達と楽しそうに遊んでいた。 きっとそいつは弱い熊で、皆から馬鹿にされているだけだろう。そう思って、猫はその熊がどんな熊なのか確認した。そして、更に驚いた。 笑顔で動物達と遊んでいる熊は、この森の中で最も恐れられている熊だった。笑顔の隙間から見える瑠璃色の瞳が、その何よりの証拠。 なんで。アイツの周りには友達がいるの? なんで。俺の周りには誰もいないの? 猫にはそのどちらも分からなかった。混乱の中、ただ熊とその友達たちをじっと見つめていた。 すると、ポツリと猫の手の上に雫が落ちてきた。雨かと思って空を見上げる。けれど、木々の間から見える空は、呆れるくらいに晴れ渡っていた。 ポツリ。 また、猫の手に雫が落ちた。 雨は降っていない。熊や他の動物達にもそんな様子は見られない。 ポツリ。ポツリ。 次から次へと手に落ちてくる雫。 手がびしょ濡れになるころ、ようやく猫は、その雫が自分の涙であることに気付いた。 しかし、自分が泣いていることには気付いたものの、何故泣いているのかは分からなかった。分からないから、結局猫はそのまま熊を見つめることにした。どうせ、他にすることは何もなかった。
見つめているうちに、日が暮れてきた。動物たちが、皆巣へと帰っていく。 だけど、猫はまだ熊を見つめていた。独りで気ままに生きてきた猫には、帰る場所は何処にもなかった。 「ねぇ。嫌われ者の猫くん。君はいつまでそんなところにいるんだい?」 熊の周りに誰もいなくなると、突然熊が猫の方を向いた。猫を見つめるその眼は、さっきまでの優しい笑顔ではなく獲物を狙うときの眼だった。 見つかった。食べられる。そう思った猫は急いでその場から逃げようとした。けれど、大きな熊は猫が思っていたよりも素早くあっという間に小さな猫を摘み上げてしまった。 「まぁまぁ、そんなに怖がらないでよ。嫌われ者の猫くん」 「こ、怖がってなんかないっ。それに俺は嫌われ者じゃないっ」 「じゃあ何で、君はいつも独りなんだい?」 「違うっ。皆が俺を怖がって逃げるだけだ。俺は強いんだ」 猫は宙ぶらりんになった手足をせめてもの抵抗としてバタバタさせた。すると、熊のほうへ雫が飛んでいった。猫が手をバタバタさせればさせるほど、熊の毛が少しずつ濡れていく。 不思議に思った熊は、じっと猫を見つめた。そして気が付いた。 「君、もしかして泣いていたの?」 大きな手から伸びている小さな爪を器用に動かすと、熊は猫の頬に出来た涙の跡に触れた。 「違う。泣いてなんかない。俺は淋しくなんかないっ」 熊が触れるのを嫌がるように猫は首を振った。 「そう。じゃあ君は、どうしてそんなに哀しそうな眼をしているの?」 「え?」 驚いて猫が熊を見つめると、熊はにっこりと微笑った。大きな手で優しく猫を抱き締める。 「僕に友達がいるのが羨ましい?自分の周りに誰もいないのが淋しい?」 「別に」 「そんなに強がらなくても良いのに。知ってる?そうやって強がってることが、一番弱いってことなんだよ。もっと素直にならなきゃ」 熊が余りにも優しく猫に接するので、猫は泣きそうになってしまった。でもここで泣いたら何かに負けてしまうような気がして、猫は歯を食いしばると必死で耐えた。 「意地っ張りだなぁ。別に泣いてもいいんだよ。誰も君を責めたりはしないんだから」 優しい熊の爪が猫の頭を撫でる。猫はまた泣きそうになったけれと、ふるふると首を振ってそれを拒んだ。 しょうがないなぁ。熊は苦笑すると、猫を覆うようにしてギュッと抱き締めた。 「こうしてたら見えないから。大丈夫、皆には内緒にしておいてあげるよ」 熊に包まれて、猫はついに耐え切れず涙を一滴だけ零してしまった。零してしまったら、次から次へと涙が溢れてきた。 「ふぇっ」 止まらなくなって声を上げて泣きつづける猫を、熊はずっと抱き締めていた。 いつの間にか森は夜の闇に飲み込まれていた。
猫が目を醒ますと、目を開けているはずなのにあたりは真っ暗だった。それに身体も温かい。いつもは寒さに震えて目を覚ますのに、変だな。そう思いながら、猫は大きく伸びをした。すると、ゆっくりと視界が開けて太陽の光が差し込んだ。 「おはよう、猫くん」 真っ白い太陽の光と一緒に猫の眼に飛び込んできたのは、翡翠色の眼をした熊だった。猫は熊の腕の中でひとしきり泣いたあと、そのまま眠ってしまっていた。 「はよ」 朝誰かと挨拶を交わすのは母親と別れた時以来だったから、猫は少し戸惑いながら答えた。答えた途端、昨日泣いてしまったことを思い出して恥ずかしくなってしまった。熊に見つめられていると顔がどんどん熱くなってくる。どうしたらいいのか分からなかったから、猫はとりあえず熊に抱きついてその顔を隠すことにした。 「ほら、また隠す。しょうがないな、君は」 クスクスと微笑うと、熊は器用に猫を摘み上げた。太陽の光に照らされた猫の毛色は、とても美しかった。 「驚いた。ずっと黒猫だと思ってたよ。君の毛色は本当は深緑なんだね」 くるっと猫を一回転させると、熊はまた猫を腕の中に抱えた。 「そうだ。猫くん。淋しいなら、僕が友達になってあげるよ」 「……ホント?」 「うん。本当。僕はこれから君の友達。ほら、約束」 猫に優しく微笑いかけると、熊は爪を一本猫に向けて差し出した。だけど猫はその意味が分からなかったので、どうすることも出来なかった。どうしようもないから、猫は黙って熊を見つめ返した。 「ゆびきり、知らないの?」 「何それ」 「しょうがないなぁ」 また苦笑すると、熊は猫の手を取った。爪を一本出させて自分の爪と合わせる。 「これはね命を賭けて約束を守りますって誓う儀式みたいなものなんだ。……ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのます。ゆびきった。ね。これで僕は君の友達。君も僕の友達」 熊の爪が猫の爪から離れる。猫はともだちと呟くと、にっこり微笑う熊と出しっぱなしになっている自分の爪とを交互に見返した。ギュッとその手を握り締めると、猫はもう一度熊を見上げた。そして初めてにっこりと微笑った。 猫の突然の笑顔に熊は少しだけ驚いたような顔をし、その後で同じようににっこりと微笑った。 「そう、それだよ」 「え?」 「君の哀しい顔は、他の人には威嚇しているように見えたんだ。だから皆、君を怖がって近づこうとしなかったんだよ。でもそうやって微笑っていれば、きっと皆君を好きになるよ。ほら、もっと微笑って」 顔を真っ赤にして俯いてしまった猫のヒゲを軽く引っ張ると、熊はお手本と言わんばかりに微笑って見せた。それにつられるようにして、ぎこちなくだけれど猫も微笑った。よしよしと熊が猫の頭を撫でる。途端に、猫の目からまた涙が零れた。 猫は、微笑いながら泣いていた。
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