281.ありがとう(不二幸)
「ありがとう」
 不二の手を強く握ると、俺は言った。こんな俺を好きになってくれてありがとう。もう一度、呟く。見ると、不二は何を言っているのか理解らないという風な顔をしていた。
「明日、手術」
「成功するんでしょ?」
「だからだ」
 だから、ありがとう。そして、さようなら。言わずに、不二を見つめる。不二は、分からないと首を横に振った。
「俺にとって、テニスが全てなのは知っているだろう」
「知ってるよ。でもだから、何?」
 少し、咎めるような感じで言う。混乱が怒りに変わっているのかもしれない。そう思ったが、それをなだめるつもりは俺にはなかった。
「だから。俺の手術が成功すれば、不二は敵になる」
「でもそれは、コート上での話だ」
「普通はそう、だが。俺はまだその切り替えが上手く出来ない。だから、不二はコート上でも、それ以外でも、俺にとって敵になる」
「だから、ありがとう、って?」
 黙って頷くと、不二は大きく溜息を吐いた。繋いだ不二の手から、力が抜ける。
「不二?」
「切り替えが出来るようになればいいってことでしょう?」
「そう簡単には行かないさ」
「そう。でもだったら、もっと簡単な方法があるよ」
 言うと、不二は俺の手をすり抜けるようにして立ち上がった。荷物をまとめ、俺を見つめる。
「じゃ、行くから。手術、ちゃんと成功させてね」
 微笑って、俺に触れるだけのキスをすると、不二は背を向けてドアまで一度も振り返らずに歩いた。そのままドアを開け、足を踏み出す。
 振り返らないのかと、思ったが。不二は部屋から体全てを出したところで、振り返った。もう、その顔には、混乱も怒りもなくて。ただ、穏やかな笑みがあった。
「幸村」
「何、だ?」
「僕、高校に行ったらテニスはやらないから」
「え?」
「幸村。僕を好きになってくれて、ありがとう。それと――」

 暫く、呆然と、閉められたドアを見つめていたが。溜息を吐くと、俺はベッドに横になった。眼を瞑り、不二の言葉を思い出す。
 ありがとう。それと、またね。
 それだけを言うと、不二は俺が言葉を出す暇もないほど速やかにドアを閉めてしまった。穏やかな笑みを浮かべたままで。
 あの、またね、はきっと。この大会が終わったらという意味なのだと思う。テニスをしていなければ、不二は俺にとって敵ではなくなる。だから。そのときは、また。
「……ありがとう」
 見慣れてしまった天井に向かって呟くと、俺の頬を生温かいものが伝った。

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