334.印(不二橘)
 目が覚めると、書置きと手鏡が置いてあった。
「……不二?」
 あたりを見回したが、その気配は何処にもない。時計を見ると、予定していた起床時間よりも2時間も過ぎていた。
「何で起こさないんだ。ったく」
 起きずに眠っていた俺も悪いのだが。とりあえず怒りの矛先を不二に向けると、俺は机に置かれていた紙を手に取った。
 『起こしても起きなかったから、先帰るね。
  「肉」って書くよりはマシでしょ?』
「……は?」
 書かれていた文章を読んで、俺は妙な声を上げてしまった。肉って、何だ?
「…………もしかして」
 嫌な予感がして、俺はその隣にあった手鏡を覗き込んだ。
「不二の奴」
 どうりで額がヒリヒリと痛んだわけだ。恐らく、使ったのは書いたのと同じ、0.28の極細ボールペン。油性じゃないだけマシだが。確かに、肉でないだけマシだが。
「あ。お兄ちゃん、起きた?そういえば、不二さんがね――」
「っ」
 ノックもせずにドアを開けた杏に、俺は慌てて額を隠した。
「ノックくらいしろ」
「なによ。別にいいじゃない。思春期の女子じゃないんだから。って。おでこ、どうかしたの?」
「な、何でもない」
「あー、そっか。このことか」
 額を隠したまま手の甲で何度か擦っていると、杏が腕を組んで妙に納得したように頷いた。
「なにをそんなに納得してるんだ?」
「不二さんがね、帰る時に、お兄ちゃんが起きたらおでこ見てみなって言ってたの。その様子じゃ、キスマークでもつけられたんでしょう。まぁ、いいわ。じゃああたし、これからちょっと出かけてくるから。留守番、よろしくね」
 どこかで見たような笑みを見せると、杏はあっさりドアを閉めて出て行った。その足跡が遠くに行ったことを確認し、額に当てていた手を下ろす。
「……キスマークの方がまだマシだ」
 鏡に映る、不二、という文字を見ながら、俺は深い溜息を付いた。
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