351.尊敬する人(不二橘+杏)
 リビングで彼の帰りを待っていると、同じく留守番をしていた彼女が、深い溜息をついた。
「どうしたの?」
「宿題。なんか、小学生じゃないんだしって感じ」
 あーあ、とまた、溜息を吐く。
「どれどれ?」
 身を乗り出してテーブルに置かれている原稿用紙を覗くと。
「……『私の尊敬する人』?」
 そこには、題名と彼女の名前しか書かれていなかった。
「明日まで。というより、本当は授業中に終わらせなきゃ行けなかったの。書けなくて、お持ち帰りよ」
 はぁ、と。三度目の溜息。いつもの溌剌とした姿からは想像できない凹み具合に、僕は思わず微笑った。
「ちょっと不二さん。人がピンチなのに微笑わないでよ」
「ごめんごめん」
「もうっ」
 頬を膨らせながらも、彼女の目は少しだけ楽しそうなそれに変わった。そのことに、安心する。
「でも、何を悩んでるの?」
「誰を書いたら良いのか分からなくて」
「じゃあ、僕の名前でも書いたら?」
 頬杖をつく彼女の真似をして僕も頬杖をつくと、微笑いながら言った。それで彼女も微笑ってくれると思ったけど。僕の予想とは反対に、深い溜息を吐いた。
「不二さんは駄目よ。尊敬してないもの」
「そうなの?」
「そう。尊敬する人じゃなくて、好きな人」
「なるほどね」
「……ほら、またそうやって受け流す」
 しょうがない人よね、不二さんって。呟いて、再び頬を膨らす彼女に、ああそうだ、と僕は人差し指をピンと立てた。
「だったら、橘は?君のお兄さん。尊敬、してるんでしょ?」
「してる、けど」
 というか、初めから彼の名前が出てこないのは可笑しいな、と。今更になって気づいた。そうだよ。彼女が、尊敬する人に誰を書いたら良いのか悩むなんて、よくよく考えてみると、可笑しい。
「けど?書けないの?」
「そう。書けない」
「何で?」
「だって、ライバルだもの」
「うん?」
「兄にはそのつもりはなくても、アタシからしたら、兄は不二さんを取り合うライバルだわ」
「でも、尊敬してるし、好きなんでしょう?」
「……それは、そう、だけど」
 また、らしくも無い、歯切れの悪い口調。
 仕方ないな。僕は溜息を吐くと、立ち上がり、彼女の隣に座った。
「不二さん?」
「ライバルじゃなくなれば、素直に尊敬できるんじゃない?」
「それ、どういう意味?」
「……さて。どういう意味だろうね」
 少し顔を紅くして僕を見る彼女に、僕はただ微笑い返した。余計に、彼女の顔が紅くなる。
「………じゃあ、不二さんは――」
「不二、何してるっ!?」
 彼女の声を遮るように、バタンと音を立ててドアが開いたかと思うと、買い物袋を下げた彼がもの凄い形相で僕を睨んでいた。
「杏ちゃんの宿題の手伝いをしてただけだよ」
「良いから、杏から離れろ!」
 まだ触ってもいないのに。彼は僕の首根っこを掴むと、そのままずるずると僕を彼女から引き離した。
「杏、大丈夫だったか?あの変態に何かされなかったか?」
「お、お兄ちゃん…」
「……変態、ねぇ」
 僕に背を向け、彼女の心配ばかりをする彼に、僕はクスクスと微笑った。その声を聴いてか、彼が、う、と小さく声を漏らした。その様が可笑しくて。余計に微笑う。
「まぁ、いいや。ね、杏ちゃん。もしかしたら、君のお兄ちゃんは僕をライバル視してるかもしれないね」
「は?」
 微笑いながら言う僕に、彼は間の抜けた声を上げ、振り返った。何でもないよ、と、微笑い返す。
「そんなことより。橘。杏ちゃんはお兄ちゃんを尊敬してるんだってさ」
「何の、話をしているんだ?」
「だから今日は、立派な夕食を作って、お兄ちゃんは凄いんだぞって所を見せてあげなよ。ああ、勿論僕にも、ね」
「???」
 思い切り頭にはてなを浮かべた顔で僕を見るから。堪えきれず、僕は声を上げて微笑ってしまった。見ると、僕につられるようにして、彼女もクスクスと微笑い声を上げていた。
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