「っく」
もう殆んど動かなくなった生き物から、勢い良くナイフを引き抜く。瞬間、赤い血液がそこから飛び出てきて、ナイフを持つ手塚の腕を汚した。いつもなら汚らわしいと感じるその色を、この日だけは、手塚は綺麗だと感じていた。
出来るだけ、残虐に。手塚はそれだけを考えていた。そうすれば、不二は分かってくれるのだと、信じて疑わなかった。
分かってくれる。何を?オレが、どれだけ不二を愛しているのかを。
「ぶ、ちょ…」
ナイフから滴る血を眺めながらそんなことを考えていると、気をつけなければ聞き逃してしまう程のか細い声でもう死んだと思っていた物が呼びかけてきた。
「死んでいろっ」
弱々しく伸ばされた手とはもはや呼べないそれを踏みつけ、喉元を切りつける。血液の殆んどを出し尽くしてしまった所為なのか、思ったよりも血は流れてこなかった。
「はぁっ、はぁっ…」
上がった呼吸を整えるように、深く息を吸っては、吐き出す。よろよろと壁に向かって足を踏み出すと、コンクリートの床に広がった血が、ちゃ、と粘っこい音を立てた。
壁に背を向け寄りかかると、手塚はそのままずるずるとへたり込んだ。閉めきった窓から薄れて届く陽は、まだ鮮やかさを残す赤を、不気味な色に変えていた。
血液の飛び散った跡のある天井を見つめながら、思う。あと何人、殺せばいい?オレは何人殺した?
人を殺すのは、思ったよりも大変だ。心臓を一突き。それだけでもコツがいると聞く。真正面からではなく、肋骨の間から、突き上げるようにして刺さなければならないらしい。だが、そんな簡単に殺してしまうのでは、手塚は納得が行かなかった。もっと残虐な殺し方を。その為、一人殺すだけでも相当な時間と体力を要した。
まだ、3人。あと何人?
不二が少しでも好意を抱いた人間を、不二に少しでも好意を抱いた人間を、全て殺さなければならなかった。それだけではない。自分に好意を抱いている人間もである。例外は、無論、不二と手塚(自分)。
手塚は、本当は僕のこと、どうでもいいと思ってたんでしょう?
不二が誰と親しく話していようと顔色ひとつ変えないでいる手塚に、別れ際、不二が言った言葉だった。そんなことはない。手塚は訂正しようとしたが、プライドがそれを許さなかった。
そうだ。
努めて冷静に、表情を変えず、手塚は呟いた。それが、不二と恋人として交わした最後の言葉。
何て味気の無い言葉なのだろうか。不二の気配の消えてしまった自室で、手塚は頭を抱えた。眠ることが出来なかった。食事すらも。どうしたら不二を引き戻せるのか、そればかりを考えて。
けれど、人前に出たら、手塚はいつもの手塚だった。長年の間に染み付いてしまった、人に弱さを見せない性格が、無意識に働いていた。唯一、弱さを見せることが出来たのは不二だけだったのだが、その不二はもう手塚には無関心だった。だが、それが無理をしてのことだということに、手塚は気づいていた。
気づいていた為、このような行動に走った。無論、そこには神経が衰弱していた事も関係していたのだが。
自分がどれだけ嫉妬していたのか。独占したがっていたのか。愛していたのか。きっと、この狂った自分の様を見れば、不二は理解してくれるだろうと考えていた。
だが、手塚は考えていなかった。この狂った姿を見れば、自分がどれだけ不二を愛していたのか、理解するだろう。しかし、果たして狂った自分を、もう一度不二が愛してくれるのだろうか。それを考えていなかったことに、手塚は今更気がついた。
もしも、理解はしても、不二が自分を愛してくれなかったら――。
突如込み上げてきた不安に、焦り、ナイフを持つ手塚の手が震えた。
その時。タイミング悪く、部室のドアが開いた。ゆっくりと広がって行く陽に導かれるようにして手塚が、顔を上げる。
「……不二」
「て、づか?」
部屋に立ち込めていた臭気に、不二が顔を歪める。そして、それから遅れること数秒で、不二の顔は恐怖のそれに変わった。薄暗いと思っていた部室はそうではなく、赤黒くなった血液で薄暗く見えていたのだと、気づいたからだ。
「手塚。君は、何を…」
「ずっと、こうしてやりたかったんだ。乾も、菊丸も、越前も。お前に近づく奴等全員を。不二。オレはこんなにもお前を…」
「だからって、こんな…。狂ってる」
「狂ってる?そうだ。オレは狂ってる。嫉妬で狂ったんだ。不二、お前が狂わせたんだ」
震えを止めるように、ぐ、とナイフを握り締めると、手塚は立ち上がった。手塚を見つめる不二の眼は、恐怖と嫌悪の入り交ざったものになっていて、それが手塚を絶望的な気分にさせた。
「不二。愛してるんだ。分かってくれるだろう?」
言いながらふらつく足で、手塚は不二に近づいた。その姿に、不二は逃げることはしなかったが、近寄ろうともしなかった。ただ、じっと自分を見つめる手塚に、来るなとでも言うように、小刻みに首を横に振っていた。
「不二…」
駄目、なのか?全てが、遅すぎたのか?不二はもうオレを、愛してはくれない?
不二が動かないのは自分を受け入れる為ではなく、ただ逃げることが出来ないからなのだということに気づいた手塚は、ナイフを一瞬落としかけた。が、強く不二を見つめ直すと、ナイフを両手で握り締めた。
「手塚?」
呼びかける不二の声は、これから起こるであろうことを感じ取ってか、震えていた。
「不二」
手塚の声も、震えている。けれど、もうナイフを持つ手は震えてはいなかった。
「……仕方ないだろう?仕方ないんだ」
半分は自分に言い聞かせるように、手塚は呟いた。その言葉に不二の目が頷くように細まったが、手塚がそれを認識するよりも早く、不二の目は手塚によって見開かれて――。