煙草を買うだけだったのだが、何故か嫌な予感がして、亜久津は遠回りをしていた。あの日から避けて通らなくなった道を、ひとり歩く。
「ちっ」
思わず求めてしまいそうになった温もりに、亜久津は舌打ちをすると煙草に火を点けた。もう、喫煙のことを咎めるものはいない。それに、もうそんな年齢ではない。
駄目だよ、亜久津。歩き煙草は。灰皿、持ってる?
突然頭の中で響いた声に驚いて、振り返る。しかし、そこには誰も居るはずもなく。亜久津は舌打ちをすると携帯用の灰皿を取り出し、乱暴に煙草を押し付けた。
くだらねぇ。
未だ引き摺っている感情に苛立ち、自然と歩調が速くなる。
別れを切り出したのは自分なのに、その後悔は酷く。恐らくこの先もずっと付き纏って来るだろうことを亜久津は確信していた。
歩くたび思い出が蘇り、それを振り払うように速足になる。
それが、いけなかった。
「ほら、不二。寒いんだったら急ごう?」
信号待ち。その向こうに懐かしい姿を見つけて、亜久津は足を止めた。
「急ごうって。だって、信号赤じゃない」
「気持ちの問題だよ。ほら」
隣にいる女顔の男の手を引き、道路越しに向き合う。亜久津は胸の鼓動が高鳴っているのを感じた。
亜久津の予感は当たっていた。あのまま、いつもの速度で歩いていたら、すれ違うことは愚か、その姿を見ることも無かっただろう。しかし、何の皮肉か、その面影が亜久津の歩調を速め、そしてふたりを引き合わせてしまった。
「……河村」
思わず、名前が声に出る。けれど、道路を挟んだ向かい側にいる彼にそれが届くはずも無い。
気づけ。気づくな。
寄り添うふたりを見ながら、亜久津の頭の中を矛盾した思いが駆け巡る。
別れてから今まで、会いたいと思わなかったわけではない。寧ろ、毎日のように会いたいと思っていた。しかし、その理由が見つからなかったため、亜久津はそれを行動に移すことはしなかった。出来れば、偶然に出会いたい。そう願っていた。
それが今、叶おうと言うのに。こんな状況で会って、何が言える?
隣に居る男も、彼も、亜久津には以前の自分たちよりも幸せそうに見えた。
自分から声をかけることは出来ない。それでも、存在だけは気づいて欲しい。出来ることなら、彼だけに。
「っ」
信号が変わったことで人の並に押され、亜久津は我に返った。幸せそうな笑みを浮かべている彼に、近づく。
ほんの僅かな距離なのに、それは亜久津には酷く長いものに感じた。胸の鼓動が、周りにも聞こえるのではないかと思うほどに体に響く。
あと、少し。そして。
「ちょっと、不二――」
すれ違う瞬間に聞こえた声は、自分を呼ぶときの優しいトーンで呼ぶ他の奴の名前。けれど、亜久津はそのことにショックを受けるよりも、久しぶりに聞いた声に、その腕を掴んで攫ってしまいそうになる自分を抑えることに必死だった。
足を速め、横断歩道を渡りきる。
詰めていた呼吸を吐き出し振り返ると、亜久津の存在に気づかなかったふたりは、相変わらず楽しそうに歩いていた。
なぁ、亜久津。おれ、亜久津のこと好きだよ。
別れた記憶よりも、楽しかったころの記憶ばかりが蘇ってくる。今なら、まだ引き返せるかもしれない、そう思えるほどに。あれだけ酷い言葉を浴びせたのにも関わらず。
「……うぜぇんだよ」
懐かしい笑顔だけを残し街角に消えてしまった彼に、やっとの思いで悪態を吐くと、亜久津は自分の行くべき道へ向き直った。そうして、買ったばかりの煙草を握り潰すと、路上のゴミ箱へと投げ捨てた。