BLACKver.
「出かけるのか?」
 彼女の部屋のドアを開け、いう。
「あら、帰っていらしたのね。珍しい」
 彼女は唇に色をつけると、オレを見ないままでそう言った。鏡越しのその表情は冷めているが、美しいと思う。
 これから彼女は想い人のところへ行く。毎週金曜の夜に出かけ、日曜の夜に帰ってくる。週末婚でも気取っているのだろうか。正式な旦那はオレなのに。第一、向こうは女だ。
 だがこれは約束。オレと結婚をする代わりに、それは形だけのものにすると。事実、オレは彼女の総てを知らない。表面ですら。
 オレの前ではそんな冷めた表情をしているが、アイツの前では美しく微笑むんだろう?そしてオレに見せない体を開き、オレに触らせない箇所に触れさせ、オレに聞かせない声でなく。
 オレが唯一彼女に触れたのは、教会での誓いのキスだけだ。固く結ばれた唇に、たった一度だけ。
「……通してくださるかしら?」
 いつの間にそこにいたのか。進路を塞ぐように立っているオレの前まで来た彼女は、表情のない声で言った。何も言わず、壁についていた手を退ける。
 これは約束。オレは自分の出世のために彼女を利用した。海王財閥の次期社長になるために。
 だから今更愛情などない。彼女が何処で誰としけこもうが、オレには関係ない。オレにだって愛人のひとりやふたりはいる。
 だが何故だろう。こんなにも今、腹立たしいのは。
「っあなた?」
 擦れ違いざまに彼女の手を掴む。驚いて振り向く彼女を壁に押し付け、触れるギリギリまで顔を近づける。
「なんの、冗談かしら?」
 声には動揺が見られない。少し距離を置いて表情を見ると、もういつもの無表情に戻っていた。
「行かせない。お前はオレの妻だ」
「ええ、そうね。書類上は」
「書類上、だと?」
「まさか今更私に愛情が芽生えたわけではないでしょう?」
 冷たい笑みが浮かぶ。この女は、こんな風に微笑むことも出来るのか。
 無表情という表情以外では社交的な作り笑いくらいしか知らなかったオレは些か面食らったが、それ以上に何故か笑えてきた。
「そうだ。愛情が芽生えたわけじゃない」
 だが、この女をモノにしたいと思い始めている自分がいることに気付いた。それは地位を手に入れることと同種の感情。力を鼓舞するための。そこには愛情など欠片もない。あるのは男のプライド。それだけだ。
 彼女の両手を片手にまとめ、顎を掴んで口付ける。触れるのは硬い感触だと思っていたが、それは柔らかく容易く口内に侵入できた。しかしそれも一瞬。意外さの隙を突かれ、唇を噛み切られる。
「愛情がないのなら他をあたってくださらない?こういうことをする相手くらい、外に幾らでもいるでしょう?」
 口元に僅かについたオレの血を舐めて言う彼女に、背筋が寒くなる。だが、それはオレの闘争心を煽るだけにしかすぎない。
「どうせ跡取りを産まなければならないんだ。いつまでも拒めやしないぞ」
「その点ならご心配なく。私、人工授精をすることに決めているの」
「人工授精だと?」
「ええ。そう。でも安心して、その子供は間違いなくあなたと私の子よ。……ただ、父の元で育てるけれども」
「そんなこと、お義父さんが許すはずが……。いや。待て。今、何て?」
「父の元で育てるといったのよ。この話は既に父に了承を得ているの。いいえ、そもそもこれは父の提案なの。跡取りを作るための苦肉の策よ。私はせめてもの親孝行としてあなたと結婚したの」
「……父親のために、か?」
「それと、生まれてくる子供のために。父親の欄が空白では可哀相でしょう?」
 そういって、また冷たく笑う。
 彼女の手を掴むオレの手が、震える。これは、怒りだ。
「このオレを、利用したのか?」
「違うわ。これから利用するの。でもそんなこと今更でなくて?」
「ふざけるなよ、このっ!」
「ふざけているのはお前の方だ」
 感情に振り上げた手を、冷静な声と共に掴まれた。振り向くと、そこには……。
「はるか……」
「遅いよ、みちる。合鍵、使う羽目になったじゃないか。何?離婚の話し合い?」
「……バカね」
 彼女の柔らかな笑みと柔らかな声に、脱力する。だが、オレが彼女を手放しても、ソイツはオレの手を離さなかった。
「僕のみちるに暴力でも?」
「未遂よ、はるか。私は何もされていないわ」
「……じゃあ何で、旦那さんの唇が切れてるのかな?」
 鋭い目がオレを睨みつける。手を振り解こうとしたが、それは適わなかった。だからかわりに空いていた手で拳を作った。あっさりとカウンタを食らってしまったが。
「どうも僕を女だと思って甘く見る奴が多いみたいだから言っとくけど。お前らみたいな軟弱サラリーマンと違って、僕はスピードの世界で生き抜くために毎日鍛えてるんだ。舐めてかかると痛い目見るぜ?」
 そういう忠告は、痛い目を見る前に聞きたかったな。
 無様に尻餅をついていたオレは、なんとか壁伝いに立ち上がった。口元を拭うと、赤い色ではなく透明なぬめりが手に付いた。この痛みで、胃液が出てくる程度なのか。
「それと。僕にはみちるを守るという役目があるから、ね」
「大丈夫よ、はるか。自分の身くらい、自分で守れるわ」
「消毒は?」
「後で」
 口づけをしようと近づく唇に人差し指を当て制すと、彼女はソイツに背を向けてオレの前に立った。オレに向けられるのは、何の感情もない瞳。
「みちる……」
「行ってきます。……あなた」
 冷たくも、もちろん温かくもない声で彼女は言うと、オレに背を向けた。
 そして壁にもたれるようにして立っていたソイツの腕に自分の腕を絡めると、一度も振り返ることなくマンションを後にした。
 静まり返る部屋に、鍵の閉まる音が響く。暫くして、車のマフラの音。
「みちる」
 切れた唇に触れると、腹部の痛みのせいで忘れていた痛みが走った。出会ってからまだ二度目の口付け。だが、例え力づくでも三度目はないだろうと、オレは確信していた。


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