WHITEver.
「それじゃあ……」
 行ってきますというお決まりのセリフが彼女の口から出る前に、オレはその体を抱き寄せた。彼女の体が、驚きの時間を過ぎても硬直している。
「あなた。……放して、くださらない?」
「行かないでくれ」
 彼女の手がオレの胸を押しのける前に、オレは言った。その声は酷く弱々しいものだったけれど、彼女にはちゃんと届いたようだった。
 一度オレの胸にあてられた手が、ゆっくりと降りていく。オレも彼女の背に触れていた手を緩めると、けれど肩を掴んだ。
 真っ直ぐに、彼女を見つめる。だけど、彼女はオレを見つめ返してはくれない。
「……はるかが、待ってる」
 近づけた唇から、呟きが零れる。
 今にも泣き出しそうなその響きに、今度はオレの体が硬直した。彼女が、ゆっくりとオレから離れる。
「……ごめんなさい。私たち、夫婦なのに」
 消え入りそうな声。だけどその想いは決して揺らぐことがないとオレは知ってる。そんな彼女だからこそ、オレは好きになったのだから。
「オレの方こそ、いきなり。悪かった。ごめん」
「あなたが謝ることじゃないわ。悪いのは私。どうしても、あなたを受け入れられない私なの」
「オレはそんな気持ちを理解した上で結婚したんだ。だから、君のせいじゃない」
「あなた……」
 そう。彼女のせいじゃない。誰かを愛してしまうということは仕方のないことだ。彼女がオレじゃない誰かを好きなのも、オレがそんな彼女を好きなのも、総て仕方がないことなんだ。
「みちる。そろそろ彼が待ってるんじゃないか?」
 泣き出しそうな彼女を微笑わせようと、オレは出来るだけ明るい声で言った。違うわ、と呟いて彼女も笑う。
「彼じゃなくて、彼女よ」
 少しだけ肩書きに相応しい雰囲気が戻る。
「なぁ」
 不意に思い出した、夏の光景。そういえば、オレ達は結婚してからもう一年も経つ。結婚というよりそれは、共同生活に殆ど近いものだけれど。
「なぁに?」
「今度、さ。また一緒に天王さんのレース、観に行こうか。国内じゃなくて、海外のをさ。オレと結婚してから、君、一度も海外で天王さんのレース見てないだろ?」
「……そんな。いいの?」
「駄目だったらこんな提案しないさ」
「だって……」
 言いかけて、彼女は口を噤んだ。その先に出るつもりだった言葉はなんだろうと、少しだけ考えてみる。
 嫉妬する?それは、どっちがなんだろうか。オレも天王さんもこの関係は許してる。
 辛い?でもそれは、初めから分かってたことだ。オレが彼女を好きになったときから、この恋は既に終わっていた。それを彼女の優しさが拾い上げてくれた。例えそれが、彼女の父親を安心させるためというのが第一目的だったとしても。オレはこうして彼女と暮らせるだけで充分倖せなんだ。ただ……。
「君の笑顔が見たいんだ。君は、天王さんを見てるとき、本当に倖せそうな表情をするから」
 去年の夏、新婚旅行先で天王さんがレースに参加していて。それを二人で観に行った。その時に見せた彼女の倖せそうな表情は、今までオレが見てきたどんな彼女よりも美しかった。
 そのとき悟った。オレでは彼女を倖せにしてあげられないと。そのことが、そう、少しだけ淋しい。
 でも、彼女の倖せの手助けは出来る。そして、倖せな彼女を見ることも。
「あなた。私は……」
「約束。天王さんから、海外遠征の予定聞いておくこと。オレも仕事の都合をつけるから。勿論、君のスケジュールが開いている日であることは前提だよ。引き止めて悪かった。オレが一ヶ月ぶりってことは、天王さんも一ヶ月ぶりなんだよな。早く行くといい」
 反論を挟む余地もないほど早口で言うと、彼女の肩を掴みドアへと向けさせた。
 正確には、オレは一ヶ月半ぶりの会話だ。彼女が海外にコンサートで出かける前は、オレの仕事の方が多くて擦れ違いだったから。そして恐らく、天王さんとは会話だけなら数時間ぶりだろう。毎日電話はしていただろうし、きっと空港からマンションまで、天王さんの車の中だったはずだ。
 それでもオレと結婚するまでは同棲していた彼女からすれば、数時間でも長く感じるに違いない。
「ありがとう、あなた。……ごめんなさい、我侭ばかりで」
 振り向かないで彼女が言う。本当は駆け出して天王さんの元へ行きたいに違いない。オレは今すぐにでも彼女を抱きしめたい。だけど、お互いその衝動を堪えている。その重みにいつまで耐えられるのだろうかと不安に思う。
「行ってらっしゃい」
 そして結局、いつもオレが彼女の背中を押してしまう。
「行ってきます」
 振り返らず、呟くように言う彼女は、静かに玄関を出て行った。
 静まり返る部屋。暫く立ち尽くしていたけれど、オレは鍵を閉めるとなんとか窓辺へと向かった。
 見下ろす路肩に、黄色いスポーツカーが止まっている。
 暫くして一人の、そう、少女と呼ぶに相応しい影が、その車に向かって駆け出して来る。車から出てきた人は、少女を自然な動作で抱きしめる。
 そこまで見て、オレは窓から離れた。
 ここからでは表情までは見えないけれど、あの夏の日のような表情を、彼女はきっとしているに違いないだろうことは分かっている。
 何処かに忘れてきた彼女の無邪気さは、きっと天王さんが隠し持っているのだろう。
「みちるさん」
 オレを愛してくれなくていい。傍にいてくれるだけでいい。オレの望みはそれだけだ。
 ただ、いつか。一度でいいからその微笑みを、オレに――。
「……みちる」


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