みちゆき
「一体何処に行くつもりなの?」
 解けないようにしっかりと繋いだ手。その握力に、温もりを通り越し痛みすら感じ。ぴんと張った互いの腕は、全力で走っても緩むことがない。
「分からない。ともかく逃げよう」
 僅かに振り向いたはるかが言う。その声は私のそれとは違って途切れてなくて、とても静かだった。
「逃げるって、何から?」
 海風が耳に響いて、思わず声が大きくなる。それなのにはるかは変わらない静かさで、分からない、と言った。
 はるかが急に足を止め、遅れて私も立ち止まる。何も、分からないんだ。はるかの声は、海へと向かう。
「でも、逃げていることは確かなんでしょう?」
 呼吸を整え、隣に並んだはるかを見る。いつから見ていたのだろう。私と視線が交わると、はるかは戸惑ったように目をそらせた。
 じゃあ。風と隣を走る車の音がうるさいはずなのに、呟くはるかの声は耳元で囁いているかのように私に届いた。じゃあ、もしかしたら。君から。
 手を解き、今度は指を絡めるようにして繋ぎ直す。その行動と言葉の矛盾に、はるか自身気付いているのか、分からない。
「ねぇ。それなら何故私を連れて行くの?」
「離れ、られないから」
「離れたくて逃げているのではなくて?」
「逃げたいよ。だけど、離れたくない」
 穏やかなのか沈んでいるのか判別しがたい声。
 けれどその動きは滑らかで、繋いだ手に唇を寄せるともう片方の手で私を抱き寄せた。伝わってくる鼓動が速いのは、走ってきたせいだけなのか。
「ねぇ、知ってる?」
 はるかの胸に顔を埋めたまま言う。くぐもった声はこんな風の中では余計に聞きとりにくいかもしれないけれど、体に響く振動で分かったのかもしれない。
 知らない。はるかが間髪入れずに返す。それが不貞腐れたときの声そのものだったから、私は笑った。
「まだ何も言っていないわ」
「君は僕のことを知っているけど、僕は君を知らないから」
 それなのにはるかは少しも笑わない。さっきの言葉には少しの冗談も混ざってはいなかったらしい。
 はるか。呟いた名前は声になったのか分からない。だからと言ってもう一度名前を呼ぶことも、他の言葉を吐き出すことも出来なくて。私ははるかの背に腕を回した。
「それで?」
 けれど、はるかはそれを拒むかのように私を押しやった。え、と聞き返す私の顔を覗きこむ。
「何を知ってるかって」
「……感情は、自分の中にあるということを、よ」
 消えてしまった体温が淋しくて、どうしても言葉に溜息が混ざる。私が立ち止まると抱き寄せてくるのに、追いかけると逃げるなんてずるいと思う。
 今も、ほら。私が目を合わせた途端に、そうやって。
「知っているさ」
 遠く海の彼方を見るような視線に、私は、知らないわ、と今度こそはるかに聞こえない声で呟いた。気が付くと、夕凪が私たちを包んでいた。


 貴女は知らないわ。だからこうやって逃げているのよ。場所なんて、関係ないのに。
 結局闇に沈んでいく海を眺めただけで戻ってきた二人の部屋。隣で眠るはるかとの距離に切なさを覚えながら、帰り道、歩きながらの会話を思い出す。
 ねぇ、はるか。きっと無駄よ。何処へ行っても。例え死別しようとも。逃げる対象が私であるなら、それは無駄なの。
 離さない?
 違うわ。離れないの。それに。
 何?
 離さない、なら。貴女だわ、はるか。
 僕が?まさか。だって現に僕は今こうして。
 私の手を握っているわ。
 私から体を離しても、決して解かなかった手。逃げているときも、繋ぎ直すために瞬間離しただけ。そして、今も。
「はるか」
 死んだように眠るはるかにそっと呼びかける。熟睡しているのか、その表情には何の変化もない。だけど。
 緩く殆ど重ねているだけだったその手は、強く。離さないとでも言うように、私を繋ぎ止めていた。


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