うたたね
 ふぅ、と溜息を吐くとみちるは本を閉じた。深とした部屋に、パタンとその音が妙に大きく響く。
 もうこんな時間なのね。
 斜めに上げた視線の先、時計の針は午後5時を回っていた。それまで気にも留めていなかったが、部屋を見回せば確かに薄暗い。カーテンのない窓から見た空にはもう太陽は無く、ただ、その余韻を残すかのように下の方が僅かに朱色に染まっているだけだった。
 集中力がありすぎるのも、困りものね。
 ソファから立ち上がり、灯りをつける。煌々と輝く蛍光灯に目を細めると、視界の隅の影に気が付いた。
 いけない。忘れていたわ。
 駄目ね。忘れないでって、私、いつもはるかに言ってるのに。
「はるか。ごめんなさい」
 退屈したでしょう。リビングテーブルで雑誌を開いているはるかの正面に回りこんだみちるはそう続けようとしたが、口から漏れた息は音を持つことは無かった。
 静まり返った部屋に聞こえてくる、安らかな寝息。テーブルに片肘をつきその上に顔をのせたはるかは、もう片手でF1雑誌のページを押さえたまま、眠りについてしまっていた。
 そういえば、今日は二度も技を放っていたわね。
 普段のクールさからは想像も出来ないあどけない寝顔。
 それにしても。器用に眠るのね。
 微動だにしないはるかに頬を緩ませると、みちるはブランケットを取りに静かにリビングを後にした。風邪をひきやすい、はるかのために。


 手からほんの少し顔を滑らせたはるかは、弾かれたように目を覚ました。心拍数が、高い。ほんの少しの落下でも、夢の中では何十メートルもの高さから落ちたように感じるのは何故だろう。動悸の激しさに反してまだ寝惚けている頭でそんなことを考えていると、正面からくすくすと可愛らしい笑い声が聞こえた。
「ごめん。寝ちゃったみたいだ」
 慌てていた様を見られていたことに頬を赤くしながら、はるかは言った。肩にかかっていたブランケットを掲げ、ありがとう、とも。
「気にしないで。お互いさまだから」
 未だ楽しげに笑いながら、みちるが返す。
 お互いさまって、何のことだ。
 その疑問にはるかは、ねぇ、と問いかけたが、視界に入ったオレンジと深緑のそれに次に出す言葉を別のものに変えた。
「何を、描いてるのかな」
 立ち上がり、みちるの隣に並ぶ。抱えていたスケッチブックを覗き込むと、そこにはあどけない表情で眠っている自分がいた。
「貴女を描いていたの。うたたねしている姿が、とても可愛かったから」
「かっ」
 可愛い、と言われて、はるかはようやく肌色に戻った頬をまた赤くした。そんなことを言われて動揺したのは、みちるが初めてだった。
「可愛くなんか。君の方が、比べ物にならないくらい可愛いさ」
「あら。私はうたたねなんてしなくてよ」
 折角の甘い囁きを少しズレた言葉でかわされ、はるかは苦笑した。けれどお陰で、頬の赤みはどうやら引いてくれたようだった。
 深呼吸をし、背後からみちるを抱きしめる。二人の間にある椅子の背もたれが少し痛かったが、構わずはるかは腕に力を込めた。
「はるか。苦しいわ」
「みちる、おはよう」
「おはよう、はるか。もしかしてこれは、寝惚けているからなのかしら」
「だったら、許してくれるのかな」
 どうかしら。含んだように微笑むと、みちるははるかの腕を静かに解いた。もう少しだけ描かせて。そう言って、再び鉛筆を滑らせる。
「そんなもの。もう描くなよ」
 影を濃くしていく絵にはるかは呟いたが、それはもう、みちるの耳には届いていなかった。しょうがないな。呟いて、ケットをかけておいた椅子へと戻る。
 みちるがもしうたたねすることがあれば。今度は僕が、そうだな。写真にでも撮っておいてやろう。
 もう殆ど頭の中にイメージが焼きついているのだろうか。向かいに座るはるかを見ることなく線を増やしていくみちるを、そんなことを考えながらいつまでも眺めていた。それは雑誌を読んでいるのと然程変わらない行為のはずなのに、みちるがスケッチブックを閉じるまで、はるかの瞼が重くなることはなかった。


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