「せつな」
 突然呼ばれて、私は思わず声を上げそうになった。気付かれないように深呼吸をしてから、振り返る。
「部屋に入るときはノックするように言いませんでした?」
「ノックしたけど、返事がなかったから。それにこれ、7回目だぜ?」
 部屋の明かりをつけたはるかに、私は目を細めたまま、何がですか、と聞き返した。
「名前」
 それは短すぎる答えだったけれど、すぐに理解した。それと同時に、疑問も浮かぶ。そうまでして私に存在を気付かせたかった、その理由は何なのだろうかと。
「入りますか?」
「コーヒー」
「えっ?」
「で、いいかな。飲むだろ?」
「ええ」
 殆ど反射的に頷いてしまった私に、はるかは口元を歪めて微笑うと、ドアを開け放したままで視界から消えた。
 そのまま暫く真っ白い壁を眺めていたけれど、代わり映えのしない色に私は椅子を半回転させた。一段落したデータを保存し、PCを消す。
 音の消えた室内。ドアの先に耳を済ませてみたけれど、これといった物音を聞き取ることは出来なかった。そういえば、夕方からほたるとみちるは出かける予定になっていた。

「誰もいないと本当に静かですね、この家は」
 呟いて、はるかの運んできたコーヒーを一口啜る。すると、カップの向こうから、小さな溜息が聞こえてきた。
「僕と君がいる。……それとも。君の中では、僕とみちるはセットじゃないと人数に入れてもらえないのかな?」
「それはあなたのほうでしょう?」
 みちるがいなくて淋しいから、私のところに来たくせに。
 拗ねたような顔をするはるかにクスクスと笑いながら、それでも何故か胸の奥で何かが重くなったのを感じていた。何故などという疑問すらも押し流すように、クッキーと共にコーヒーを流し込む。
「みちるはみちる、僕は僕だよ」
「それで? 何の用です?」
 用なんて無い。理由があるとすれば、淋しかったから。そうだとは分かっていながらも私は訊いた。少し意地悪をしたい気持ちにもなり、突き放すような声になっていた。
「夕飯」
 また、短い答え。しかしそれは私の声色の影響ではなかった。はるかの声は、表情も、さっきと何も変わっていない。
「僕も気付かなくてさ。今から作ると結構遅くなるし。どうしようかって」
「作る? 変ですね。こういうとき、みちるが何かしら用意していってくれてるはずなのですが」
 時計に目を向けるともう20時近かった。みちるたちが何時に帰ってくるのかは分からなかったけれど、夕方から出かける場合は急用でもない限りにはみちるは何かしら作ってくれていた。当然今日もそうだと思って、私は自分は勿論はるかの夕食も気にしていなかった。
「僕がいいって言ったんだ。たまには、楽させようと思ってさ」
「……はいはい。ご馳走様でした」
「あのな……。僕が楽させたかったのは君だよ、せつな」
「えっ?」
「なんて。その割に、夕飯のことすっかり忘れてたんだけど」
 人差し指で頬を掻きながらいうはるかに、私は持っていたコーヒーカップを口まで運んだ。傾けたカップで顔を隠しながら、はるかを見る。
 深く息を吐いて気を取り直したはるかは、真っ直ぐに私を見つめていた。視界を遮るカップなど、存在しないかのように。
「待てるのなら、君のリクエストで何か作るけど。……部屋に篭りきりだったから気分転換をしたいっていうのなら、外に食べに行ってもいいぜ?」
 今なら、僕の助手席に座れるけど? カップを置いた私に、軽い口調で言うとはるかは立ち上がって私に手を差し伸べた。
 その自然な動きに、思わず手をとってしまいそうになったけれど、触れる寸でのところで伸ばした指先を握りしめた。
「せつな?」
「……もう少し、調べたいものがありますから。その間に、何か作ってもらえますか?」
 外していた眼鏡を掛け、はるかの返事を待たずにPCの前に座る。暗いモニター越しにはるかは何か言いたそうに私を見ていたけれど、それが色づくと共に、分かったよ、と溜息混じりに言った。
「リクエストは?」
「何でも構いません。作ってもらうのですから、出されたものを素直に食べますよ」
「……何かそれ、酷いな」
「あなたの料理の腕を信用しているんです」
 顔を見ないままの会話。怪しまれるかとも思ったけれど、分かった、と今度は笑いを含んだ声ではるかは言った。出来たら呼ぶから。穏やかにそう告げて、部屋を出て行く。
「……まったく。本当に」
 何をするわけでもなくただマウスを走らせながら、私は幾つもの感情の混ざった溜息を吐いた。


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