ビリビリ
「はるか」
 甘い、媚薬を含んだ声で名前を呼ぶ。
「……なんだい?」
 名前を呼ぶ代わりに曖昧に微笑って見せる。
 すると彼女は、少しだけつまらなそうに口を尖らせて。けれど次の瞬間にはもう、妖しい微笑を浮かべた。
 分かってる。
 ゆっくりと伸びてくる腕。それが僕の首にしっかりと絡められる。
 分かってるんだ。
 目を閉じて、深呼吸をする。それでも、この胸の高鳴りは鎮まりやしない。
「はるか」
 そんな僕を見透かして。追い討ちをかけるかのように、彼女の声が響く。
 目を開けて見つめれば。ほら。容易く捕まってしまう。
「……みちる。みちるっ」
 存在を確かめるように。自分の存在を刻むように。この鼓動を伝えるように。強く、抱きしめる。
 首に絡まっていた手は、その先を求めるように僕の髪をゆっくりと掻き乱していく。
 彼女が倒れたのか。それとも、僕が押し倒したのか。気が付くと、彼女を抱きしめていたはずの手は冷たいフローリングの上で自分の体重を、いや、理性を必死に支えていた。
 僕の手には冷たく固いものがあったけれど、彼女の手は依然として僕の温もりに触れていて。例え僕がこのままこの距離を保っていたとしても、彼女がそれを許さないであろうことは必至だった。少しずつ、彼女の後頭部に隙間がつくられていく。
「みちる」
 もう、殆ど痺れかけている頭で、囁く。左手だけに体重を任せ、右手で微笑みの輪郭をそっとなぞる。すると、彼女は僕の名を呼ぶようにして指を食んだ。
 柔らかな感触。そこからじわじわと侵食されていくような感覚。
 触れていた手をそのまま顎へと滑らせると、少しだけ、角度をつけさせた。
 期待に、彼女がゆっくりと目を閉じる。応じるように僕も目を閉じ、そして距離を近づけた。
 けれど。
「……はるか?」
 重ねたのは、額。
 目を開けた彼女と、目が合ったけれど。それでも僕は、期待には応えなかった。
 彼女も、それ以上は望んでこない。幾らせがんだところで無駄だということを、これまでの経験から知っているからだ。
 それでも幾度と無く試してくるのは、諦めきれないからなのか。それとも、僕の本心を見抜いているからなのか。
「今日は、帰るよ。……手当て。ありがとな」
 目を逸らすことが出来ないから、きつく閉じては彼女から離れる。ジャケットに袖を通そうとすると、やはりまだ肩に微かな痛みが走った。変身をする前に受けた傷なのだから、仕方がない。
「今日はもう遅いわ。それに、そんな状態でバイクなんて……」
「タクシーでも呼ぶさ。電話、借りてもいいかな?」
「はるか。ねぇ、はるかっ」
 部屋の隅に置かれた電話に向かおうとするのを、後ろから抱きとめられた。ごめんなさい、と唇が動くのを、背中で感じる。
「お願いだから。今日は泊まって。……私はソファで寝るから」
 強く抱きたいのに、拒まれることを恐れて戸惑っている白く細い腕。その腕に触れ、優しく解くと、僕は溜息混じりに、駄目だ、と呟いた。
 振り返れば案の定、彼女の目は不安に揺れていた。
 そうじゃない。違うんだ。そんな意味をこめて、柔らかな髪をくしゃりと撫でる。
「はるか?」
「泊まるなら。ソファで寝るのは僕だ。僕はデリケートなキミと違って、何処でも寝れるからな。知ってるだろ?」
 肩を竦めて微笑って見せる。彼女は一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたけれど、一呼吸置いて僕を見つめ直すと、それもそうね、と微笑った。

 本音を言うと、僕だって。みちるを愛している。出来ることなら今すぐにだって彼女を抱きたい。それは別に抱かれるという行為になっても構わない。
 でも僕はその一線だけは越えないと誓っている。そのことは彼女にも伝えた。使命のために、と。
 その嘘を。彼女が信じてくれているのかどうかは分からない。いや、信じていないからこそ、止めないのかもしれない。
 だから時々、彼女を怖いと思う。
 もし、本心を見透かされていたらと思うと……。

「ねぇ、はるか。起きていて?」
 微かに聴こえた声。気配は感じていたけれど、まさか声をかけられるとは思ってもいなかったから、僕は少し体を震わせた。
 気づかれないように横たえていた体を起こし、振り返る。
「起きてるよ」
 彼女の言葉を先回りし、大丈夫、と付け加える。すると彼女はおずおずと起き上がった僕の隣に座った。
 空調は整っているはずなのだけれど、何のせいか分からない彼女の震えに、僕は互いを包みこむようにしてその肩に毛布をかけた。
「……幾ら考えても、分からないの」
 暫く、そうやって寄り添っていると、未だ少し震えた声で彼女は呟いた。
「分からない?」
「はるかは……私を好きだって言ってくれたわ。それは、本当なのよね?」
「ああ」
「でも、あなたの一番は使命。それも」
「……ああ。本当のことだ」
 そう。僕が生きる上で最も重要な、最優先させるべきものは使命。例えプリンセスよりもこの地球(ほし)よりも何よりも彼女を大切に思っていたとしても。それだけは、変わらない。……変えてはいけない。
「私はっ。……私なんかじゃ、プリンセスとは吊り合わないのは分かっているわ。だけど。でも。私は、使命よりもあなたを一番に選ぶわ。あなたのためなら私はなんだって出来る。この命すら、惜しくはないわ」
 声は揺れているのに。僕を見つめるその目は何処までも真っ直ぐで。僕は思わず彼女から目を逸らせてしまった。それ以上見つめられたら。本心を、僕の弱さを曝け出してしまいそうで。
「ねぇ、はるか。私はあなたの一番じゃなくていい。ただ、一度でいいの。私のことを好きなら。一度でいいから……」
 逸らせた視線を追って、顔を覗かせる。僕の名前を綴る唇に触れたくなる衝動に堪えることに必死で。彼女の方から近づいていたことには気づかなかった。
 幾度と無く避けてきたのに、ついに重なってしまった想い。離さなければと思う程に僕の手は彼女の髪を乱し、もっと深く重なるようにと促していた。
「っめだ。駄目だよ、みちる。それだけは。この一線を越えたら僕は。キミを一番に想ってしまう。僕が生きる上で必要不可欠なものに……」
 拒むために思い切り突き飛ばしてしまったせいで、彼女はソファから落ちてしまっていた。けれど、そうでもしないと逃れられそうも無くて。
 驚きと打ちつけた体の痛みに言いえぬ表情をしている彼女をそのままに、僕はジャケットを羽織った。出来る限り彼女を視界に入れないようにしながら。
「どうしてそれがいけないの?使命を果たすことも確かに私たちの倖せでもあるけれど。それ以上の倖せが、もう手を伸ばせば掴めるところにあるのに。どうしてあなたはそれを拒むの?」
 ドアノブにかけた手の動きを止めるかのように、彼女は声を張って言った。
「倖せになる権利は、例え使命の最中であってもあると思うの。だってこの運命だって、私たちは自分で選んだのだもの。そうでしょう?」
 怒りさえ感じ取れるその声色に驚き、彼女の表情を確かめたくなったけれど。僕は奥歯をきつく噛み締めると、それに堪えた。
「……キミにとってはそれが倖せなのかもしれないが。悪いけど、僕にとってはそれは不倖せでしかないんだ」
「どうして」
「感情を繋いでしまえば、必ず枷になる。僕は誰にも縛られたくない。自由でいたいんだ。分かるだろう?」
「私は、あなたを守るわ。絶対に。使命なんかに縛らせてはるかを死なせたりはしない。私自身もあなたの枷にはならない。そうなるくらいなら、死を選ぶ。あなたのためだもの。私はあなたのためなら死ねるの」
「だったら。もうこれ以上、僕にキミの感情を押し付けないでくれ。そんなこと、死ぬよりも容易いことじゃないか」
「嫌よ。それだけは嫌。想い合っているのに触れられないなんて。私には、死ぬことの方が容易いわ。それに、あなたの辛い表情(かお)をこれ以上……」
「辛い?僕がか?」
「そうよ」
 突然、声が近くで聴こえたと思ったら、ドアノブを掴んだままの手を握られて。僕は不覚にも彼女を見てしまった。
「はるか。あなた、何か隠してる。……何かを、恐れているの?」
「……僕は、何も恐れてなんか」
「嘘。じゃあ何で私を抱いてくれないの?遊びなら他の人と容易く肌を合わせるのに。何故私だけ拒むの?」
 本当は。私のこと好きでも何でもないんでしょう?
 呟くように言った彼女の言葉が、僕の足元へと落ちる。それから少し遅れて、銀色の雫も僕の足元へと落ちてきた。
「……そうだよ」
 キミの言う通りだ。僕は恐れている。キミが、みちるの存在が、僕の総てになることに。
「……そう」
 僕の、そうだよ、を。どの言葉に対する答えと受け取ったのかは分からない。いや、多分。彼女が最も傷つく答えとして受け取ったのだろう。嘘吐き、と。彼女は僕の足元に呟きを落とすと同時に、僕の手を掴んでいた腕も落とした。
 泣いている。それは分かっていた。だけど。それでも。
「じゃあ。また」
 彼女を見ることなく。足元に向かって呟くと、僕には重過ぎる扉を押し開けた。


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