永久に・2
「みちる、起きて」
 優しい声に意識を引き上げられる。それでも頭を撫でる手の感触が心地よく、私はまだ微睡みから抜け出せないでいた。
 それなのに。
「みちるー。まさかあれだけの酒で酔いつぶれたわけじゃないわよねぇ」
 ノックというより扉を叩き壊すかのような暴力的な音と耳を塞ぎたくなるような甲高い声に、私は今度こそ目を開けた。
「私」
「これをかけて。直接太陽の光を視ないように」
 無事に目が覚めたことに対し混乱する私に、色のついた眼鏡とガウンを身に着けさせ、背中を押す。
 ドンドンという音とともに震える扉を開けると、セカンドバイオリンを務めるエルザが拳を振り上げて立っていた。
「なんだ、起きてるじゃない。だったら早く出てきなさいよ」
「今起きたのよ」
「二日酔いじゃないでしょうね」
「まさか」
「まったく。規則正しい生活を心がけてるみちるが朝食に姿を現さないから、心配したんだよ。それでなくたって、最近この街には吸血鬼だか殺人鬼だかが現れてるっていうのに」
 吸血鬼。その言葉に私は思わず首筋を触った。皮膚に凹凸は感じられなかったものの、指を滑らせると鋭い痛みが走る箇所があった。
「みちる。まさか男連れ込んでない」
「えっ」
「その痣」
 胸元を指さされ、視線を落とす。過剰に開いた胸の窪みに出来た痣は、何処かにぶつけたなんていいわけは通用しそうになかった。
「みちるは男に興味ないと思ってたけど。もしかしてまだいるの」
「はじめからいないわよ」
 男は。
 内心で呟いて、部屋をのぞき込もうとするエルザの頭を押し返す。抵抗されると思ったけれど、意外にもエルザはあっさりと身を引いてくれた。私を信じてくれたのか。それとも。もしかしたら、男がいるからと気を使ったのかもしれない。
「どうでもいいけど、今日の演奏には響かせないでよ」
「当たり前じゃない。私はプロよ」
 私の言葉に満足げにうなづくとエルザは入って来たときとは別人のように軽やかに扉を閉めて部屋を後にした。
 ため息をついて、扉にもたれる。
 幾つもの嘘を吐いてしまったことに、全身から力が抜ける。しゃがみ込んだ私の視界に入り込んできた影に顔を上げると、優しい笑顔が手を差し伸べていた。
「おはよう、みちる」
「おは、よう。はるか」
 手のひらを重ね、立ち上がる。瞬間襲ってきた目眩に、私はそのまま彼女の胸へと倒れ込んだ。
「それなりに血はもらったからな。何か食べて、コンサート本番まで大人しくしているといい」
「どうして」
「みちるを食べるって言っただろ。永久に」
「永久、に」
「だから今夜は打ち上げなんかいかず早く帰ってくるんだ。これは主からの命令」
 命令。そんなもの無くても、私はあなたの元へ戻るわ。思ったけれど、口にはしなかった。
 彼女の腕を抜け出し、ふらつく足で電話に向かいルームサービスのメニューを開く。
「人間の食べ物でも構わないの」
「君は24時間かけて徐々に吸血鬼へと変化する。見た目には分からなくても。だから今はまだそのメニューで大丈夫だ。むしろ今血を飲んだら吐いてしまうさ」
 言いながら背後に立ち、腰に手を回してくる。密着したままで放っていると、首の傷に彼女の舌が触れた。未だ残る痛みに、身を竦ませる。
「はるか」
「まだ、君の血を飲んでも大丈夫そうだ」
 冷たさを含んだ声。横目で見た鏡には、鋭い牙で私の肌に噛みつこうとしている彼女の姿があった。
「駄目」
「動くな」
 耳元で囁かれた命令に、体が硬直する。それは吸血鬼の力によるものなのか、彼女の声の冷たさによるものなのか、私には分からなかった。彼女の歯が私の皮膚を食い破る。
「ああっ」
 痛みに声を漏らしたはずなのに、それは何故か甘く響いた。
「な、に」
「昨日はすぐに気を失ってしまったから知らないだろうけど、吸血行為は本来快楽を伴うものなんだ。そうすれば、長い間吸っていても、獲物に逃げられないだろう」
 食事を終えた彼女が、耳元で笑う。そうしてかかる吐息ですら、私の体を火照らせた。
 命令のせいではなく動けずにいる私の体を彼女の長い指が這う。
「駄目よ、これ以上は」
「どうして。君も本心では望んでるんだろう」
「コンサートに。あなたが言ったのよ、何か食べて大人しくって」
「そうだったかな」
「お願い。その後なら幾らでも食べていいからっ」
 おそらくもう、私はヴァイオリンを持つことは無いだろう。今の公演が終われば、私のヴァイオリニストとしての人生も終わる。そして、吸血鬼として彼女と共に永久の時間を生きて行く。
「そういうことなら、仕方がないな」
 指先が核心に触れる寸前で、彼女は身を引いた。崩れそうになる私の腰を支える。
「そうそう。ルームサービスもだけど。その前に、君はシャワーを浴びるべきだ」
「だから私は」
「君が寝ている間に僕は汗を洗い流したけど。君はそのままだってこと、忘れずに」
 言われて、私は思わず自分の体のにおいをかいだ。途端笑い出した彼女に、顔が熱くなる。
「僕はそのままでも構わないんだけど。いや、構うか。みちるのにおいはどうしても僕を誘惑する」
 そう言って近づいてくる彼女の顔を、嫌と押しやり、腕から逃れる。まだ少しふらつくけれど、構わずバスルームへと向かった。勿論、彼女には何も言わず。
 扉を閉め、深くため息をつく。高鳴る鼓動。おそるおそる今まで触ったことのないそこを指先でなぞると、案の定湿った音が――。


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