永久に・4 |
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観に来てくれるのかしらという問いに彼女は迷いもなく頷いてくれた。 結局私がホテルを出たのは16時を少し回ってからだった。命令をされたわけではない。抱(いだ)かれていたわけでもない。それなのに彼女の隣から立ち上がることが、なかなか出来なかった。 行かなくていいのかという彼女からの問いがなければ、おそらく私はずっと、一晩中だってああして彼女と片腕を触れ合わせ座っていたことだろう。 どうして今日も公演があるのよ。思わず憤る自分に苦笑する。 この公演だけは、最後だけは悔いの残るものにしたくない。そう強く願っているはずなのに、彼女の存在が割り込んでくるだけでその総てが狂ってしまう。 まるで別人になった気分だわ。 でも、そう、私はもうすぐ完全に生まれ変わる。一体今、人間の部分は何割残されているのだろう。 「えっ」 ソロパートを弾き終わり弓を下ろした私は、その場にいた誰もが自分を視ていることに声を上げてしまった。演奏は止まり、指揮者ですら驚いた表情で私を見ている。 何か間違えでもしただろうか。彼女のことが頭を過ぎった一瞬にでも。 しかし私の不安をよそに、指揮者がゆったりと拍手をし、それに連なって私を視ていた総ての人が笑顔で拍手をした。 どういうこと。 疑問に思いながらも、私はみなに一礼をし、まだ止まない拍手の中パイプ椅子に腰を下ろした。 リハーサルが終わり控え室に戻ると、先に戻っていたはずのエルザが後ろから抱きついてきた。 「ちょっと、エルザ」 「みちる、やっぱり男連れ込んでたでしょう」 耳元で囁かれる。触れる吐息をくすぐったいとは思っても、体が熱くならないことに胸を撫で下ろした。昨夜から彼女に翻弄されているせいで、自分がそういう方向に変化してしまったのではないかと、少しだけ不安だったから。 「何を言っているのよ」 「さっきのソロ、素敵だった。こういったらなんだけど、みちるは上手いから今までもちゃんと曲の感情を表現できてはいたんだけど。今日のは違った。上辺じゃなく、ちゃんとみちるの内から表現されてた。みちるの感情で弾いてたよ」 「私の、感情」 「きっとヴァイオリン以外にみちるの心を動かす存在に出会ったのね」 正面から私の肩を掴み、本当に嬉しそうに笑う。その顔に、私はただ微笑み返した。 そう。私はとっくに知っていた。自分が、技術だけのヴァイオリニストであることを。 ヴァイオリン自体への情熱はある。曲を聴いて感動もする。けれど、自分の感情となるとどうしても表現できないでいた。いや、見つけられないでいたといった方が正しいのかもしれない。 だから、ソロを与えられたときは正直どうしていいのか分からなかった。 名誉なことだし、その夢を抱いていなかったわけではない。けれど、言ってしまえば譜面通りにしか弾けない私は、サポートで一生を終えるのだろうと思っていた。実際楽団員の中には、色、金、顔のどれかが決定要因だと思いこんでる者もいる。私だってどれかが原因でないととても信じられない。もちろん色も金も仕掛けてないことは私が一番よく分かっているのだけれど。 昨日の公演にしたって、無事終了したことに浮かれていたけれど、結局私のヴァイオリンは用意された感情でしか音を奏でることが出来なかった。 それが、嗚呼。なんていうことなの。 もうこれでヴァイオリンは終わりだという時になって、次の扉を開けてしまうだなんて。 目の前に広がる道。ソロヴァイオリニストとしての成功への未来。踏み出したくなるその背後には、昨日突如として現れた道がある。その二本は決して交わることはなく、真逆の方向へと続いている。 ああ、はるか。貴女に会いたい。早く会いたい。会って、君は僕のものだと強く抱きしめて欲しい。今目の前にある道は一瞬の幻で、貴女に指し示された道が只唯一のものだと。信じさせて欲しい。 揺れている感情。それ自体に戸惑いを抱く。今までたいていのことは即決していたのに。 これが、感情と言うものなのかしら。 「みちる。顔色悪いみたいだけど」 ずっと立ったままの私に、他の人と会話をしていたはずのエルザが戻ってくる。もしかして寝不足、と茶化すような口調をとりながらも私を見る目は不安そうだった。 「拍手にのぼせたのかも。本番までまだ時間があるし、少し風に当たってくるわ」 「それじゃあ私も」 「ごめんなさい、エルザ。ひとりに」 「わかった」 エルザの優しい手が、いってらっしゃいと私の背中を押す。エルザは優しい。それなのに、私は。 ごめんなさい。 何に対する謝罪なのか。私は内心でもう一度エルザに呟くと、控え室のドアを開けた。 廊下ですれ違う度、スタッフが笑顔をくれる。それだけリハーサルの演奏が素晴らしかったということだろうか。 昨日来てくれた人には申し訳ないことをしたわ。 もし噂を聞きつけてもう一度私の音を聴きたいと思っても、そのときにはもう私はヴァイオリニストではなくなっている。今日を入れた残り4日間のチケットは当日立ち見があるだけ。追加公演でもあれば別だけれど、私がいつまでここに滞在するのかは彼女にしか分からない。 吸血鬼は街から街へと流れるものだと聞いている。 確かに吸血鬼が現れたという話もここ2週間くらいだし、前年にこの街にやってきたときはそんな噂はなかった。 せめて公演が終わるまでいられたらいいのだけれど。 また心が揺れている。こんな自分がいたなんて今まで知らなかった。良くも悪くも、彼女は色々な私を引き出してくれる。 でも。 それが彼女と生きるための枷になるのなら、こんな感情、いらないのに。 「みちる」 余計な思いを消し去ろうと頭を振ったとき、不意にどこかから声が聞こえた。 まさかそんなはずはない。幻聴だと思い直し足を踏み出す。すると今度は腕を強く引かれた。そのまま、隣にあった薄暗い部屋に連れ込まれ、叫び声をあげようとする口を塞がれる。 「んっ」 柔らかい感触。唇の隙間から滑り込んでくる温もりに、私はそれが誰であるのかを悟った。途端、体に熱が宿り、力が入らなくなる。 彼女の舌が口腔の上を撫で、何かを確認するように歯列をなぞって、離れて行く。 「はるか。どうしてここに」 「観に来いって君が言ったんじゃないか」 そういう意味ではなかいのだけれど。続けようとして私は言葉を飲み込んだ。昨夜のように私の部屋に入り込むことが出来るのだから、会場内に忍び込めても不思議ではないのかもしれない。 「リハーサル。観てたけど、素敵だった。昨日とはまるで別人だ」 「もう、別人だわ」 「そうだな。さっき確認したけど、犬歯がだいぶ尖ってきたみたいだ。はじめのうちは力をコントロールできないから、下手に興奮すると牙が伸びたり目が金色に輝いてしまうだろう。冷静さだけは、どうか失わないよう」 彼女の言葉が終わらないうちに、舌で歯並びを確認する。そして、尖った何かが引っかかる感触に、覚悟はしていたはずなのに愕然とした。 私はもう、ヒトではない。あの頃の生活には、戻れない。 「みちる。泣いてるのか」 彼女の手が頬に伸び、指先で雫を掬う。泣くなと一言命じてくれればきっとこの涙は止まるのに、彼女はただ無言で私を見つめるだけだった。 命令。そう、きっとそれだわ。 「ねぇ。私に、感情を込めてヴァイオリンを弾くようにって命令した」 「何のことだい」 「そうじゃなければ、リハーサルの時、私を操ってた。ねぇ、そうでしょう」 お願い、そうだといって。今日のことは、私の力じゃない。だとすればきっと、ヴァイオリンに対する未練はなくなるはずだから。 「僕が命令を出していないことは君自身分かってるだろう。それに僕が君操れたとして、ヴァイオリンを詳しく知らない僕にはあそこまで美しい旋律を君に奏でさせることは出来ないさ。あれは、君自身の才能だ」 穏やかな口調で、やはり残酷なことを言う。 そうと頷いてはみたけれど、力の戻らない私は彼女の肩に額を寄せるようにしてもたれ、それから視線の先にある彼女の胸にばかと呟いた。私の肩を抱きながら、何故か喉の奥で笑う。 「君にはまだ戸籍がある。変わらない容姿を怪しまれるまでは、ヴァイオリニストでいればいい」 「えっ」 「これ以上泣くと、本番に差し支える。さぁ涙を拭いて、君は控え室に戻るんだ。これは命令だよ」 顔を上げた私の顎を掴み、金色の目で言う。ヴァイオリニストでいればいい。その言葉の意味を確かめようと口を開くのに、言葉が上手く出てこない。 「戻るんだ」 冷たい声。その後で一瞬だけ瑠璃色の微笑みを見せると、彼女は闇に融けるように消えてしまった。 「はるか」 指先で涙を拭い、彼女が出て行ったのであろう扉の隙間から部屋の中に差し込む、細長い光を見つめる。そこで初めて、この部屋の灯りが点けられていなかったことに気付いた。 お願い。爪だけは伸びないでいて。 舌を使ってもう一度その兆しを確認すると、祈るように両手を握りしめ、私は薄闇を後にした。 |
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