永久に
 初のロンドン公演。ヴァイオリニストとして楽団の中でソロパートを与えられた私は、初日を無事に終えて少々浮かれていた。
 打ち上げで仲間に進められるままに軽くアルコールを飲み、上機嫌でホテルの部屋へと辿り着く。ミネラルウォーターで喉を潤し、酔いを醒まそうと雨音のする窓を振り返ったとき、その人は影のように佇んでいた。
 どうやってここに。疑問に思ってその人の後ろを見ると、窓が開きカーテンが揺れていた。恐らくはそこから進入したのだろう。けれど、ここはホテルの五階。上は十階まで部屋があり、屋上からロープか何かをつたって降りてくるには一苦労だ。だからと言って、一階からレンガを模しているとはいえ大した凹凸もない壁を登ってくることも不可能に近い。第一、その人の外套も髪も濡れていない。
 では初めから潜んでいたのだろうか。思い返し、記憶を手繰る。けれど、部屋に入ってすぐにその窓に向かった時には誰もいなかった。もしかしたらベッドの下にでも潜り込んでいたのかもしれないけれど、ベッドルームの扉は私の背後にあるし、隠れられそうなものなどその人の周囲には何もなかった。
「今晩は、お嬢さん」
 私の混乱を他所に、漆黒の外套に身を包んだその人は、柔らかい声を放ち一礼をすると足を踏み出した。蜂蜜色の髪、白い肌。闇の中で黄金に輝いていた瞳は、灯りの下では瑠璃色をしていた。
「突然の雨で困ってしまってね。一晩、ここで雨宿りをさせてもらえないかな」
 目を細め、微笑む。瞬間見えた犬歯の鋭さに、この人は最近この街を騒がせている吸血鬼なのだと悟った。途端、私の酔いは冷め、恐怖が身を包んだ。
 手が震え、動悸がする。それを隠すように両手をあわせ、胸元にあてる。誰かを呼ばなければ。そう思うのに、口から出てきた言葉はイエスを意味するものだった。
「ありがとう」
 また一礼をし、外套を脱ぐ。ポールハンガーにそれを掛けるためにすれ違ったとき、仄かに緑の匂いがした。もしかしたら、普段は薄暗い森に住んでいるのかもしれない。霧に包まれた薄暗い森の中、瑠璃色の瞳を光らせて手招きをするその人と、操られたように手をとってしまう私。そんな光景を思い浮かべては、頭を振った。
「その様子だと、僕の正体に気づいたようだ。大丈夫。怯えないで」
 私の元へ戻ってきたその人は、腰に手を回すと私をソファへと導いた。革制のソファカバーの擦れる音が部屋に響く。
 それまでずっと顔ばかりを見ていたけれど、ふと下ろした視線の先にあった膨らみに、思わず、あ、と声を漏らした。クスリと微かな笑い声が吹きかけられる。
「女の吸血鬼は珍しいかな」
「そういうわけじゃ。ごめんなさい。そんな恰好をしているから、てっきり男の人かと」
「謝る必要はないさ。着ている服は男物だからね。お嬢さんがコンサートで着ていたようなドレスは勿論だけれど、今着ているような服も、どうも性に合わないんだ」
「もしかして、コンサート、観ていたの」
 私は一体何の話をしているのだろう。彼女は私を殺すか仲間にするか考えている吸血鬼で、私はようやく夢への第一歩を踏み出したばかりなのに。しかしこうなってしまった以上、彼女に話を合わせて見逃してもらうしかない。けれど、本当にそんなつもりで、私は今、彼女と言葉を交わしているのかしら。
 自分の感情が分からなくなる。私に触れている彼女の手が温かいことに、恐怖は薄れていた。もっとずっと、冷たいと思っていたから。ただ、それでも胸の鼓動は早いままで、彼女に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに五月蝿く体内に響いている。心なしか、頬が熱い。
「ああいった上等なコンサートには、上等な客が来る。獲物を探すにはうってつけなんだ。仲間にするにしたって、品のいい人間に越したことはない。僕は、下品な物は嫌いなんだ」
「それじゃあ私の音は聴いてくれなかったのね」
「おっと。勿論、演奏中はステージに集中するさ。だからこそ、こうしてお嬢さんの前に現れた」
「貴女のお眼鏡に適ったのね」
「まぁ、そんなところかな」
 何が可笑しいのだろう。彼女は息を吐くように微笑った。その整った顔に、どうしても視線が向かう。交わす視線。見つめられて、私は息が詰まった。体はまるで金縛りにでもあったかのように動かない。
 吸血鬼の目は、邪眼だと言われている。相手の自由を奪い意のままに操れる、と。けれど対象は自分が血を吸って仲間にした相手であるはず。私はまだ、彼女に牙を立てられてはいない。それならどうして。私の体は私の意に反するのだろう。それとも、もしかしたら。
「私を、殺すの。それとも、仲間に」
「実は、どっちにしようか決めかねててね。だからまず、味見をしてみようと思うんだけど。いいかな」
「味見」
「そう。それを人間はたまに食べると表現するけれど」
 彼女の手が、頬に伸びる。近づいてくる笑みに逃げなければと思うのに、私の体には相変わらず言うことを聞かない。触れ合う唇に、身が縮む。瞬間、気づいてしまった事実に、私は更に体を強張らせた。
「怖いかい」
「怖いわ」
 私は、この人に恋をしている。きっと初めて視線を交叉させた時から。その事実が、とてつもなく怖い。いつだって、初めての事には恐怖が付き纏うものだから。
 ずっと、ヴァイオリンにしか興味がなかった。それじゃあまるでヴァイオリンが恋人じゃないかと周りは言っていたけれど、それが事実だったし、それでよかった。今まで何人かの男性が求愛をしてきたこともあったけれど、心が冷めるどころか、動くことすらなかった。だから私は、一生誰かに恋をすることなど、無いのだと思っていた。
 それなのに今、私は、女性に、しかも自分を殺すかもしれない吸血鬼に、心を奪われてしまっている。
「大丈夫、怯えないで。僕に身を委ねて」
 ブラウスのボタンが片手で容易く外される。慣れた手つきに、これは彼女にとって特別なことではないのだと思い知らされ、胸が痛んだ。
 もう、駄目ね。自覚すると、手が付けられない。 
 思えば、ヴァイオリンに対してもそうだった。一度プロになるんだと決意をしてから、自分ですら驚くほどにヴァイオリン漬けの日々になり、その他のものに興味が無くなった。幼い頃は並行して絵画も習っていたのだけれど、今ではヴァイオリンの息抜きに絵筆を取る程度になってしまっている。
 自己暗示にかかりやすいタイプなのかもしれない。そのお陰でヴァイオリンの腕は上がり、ソロを任されるほどになったのだけれど。
 もしかしたらもう、ヴァイオリンには興味が向かないかもしれないわ。
 現に、明日のコンサートに穴が開くことも構わず、私は今彼女に導かれるままにされたいと思っている。彼女が望むのなら、このまま殺されてしまったとしても。
「もしかしてお嬢さんはこれが初めてなのかな」
 彼女の瞳に映る自分に、静かに頷く。そう、と口の中で呟いた彼女は、口角を引き上げて今までの優しいもの違う微笑みを見せた。その先に、確かな悪意を感じる。けれど、それでも私の胸は構わず高鳴った。
「じゃあ、特別優しくしないといけないな」
 体を離し立ち上がった彼女が、手を伸ばしてくる。まるで操られてでもいるように手を重ねると、そのまま薄暗いベッドルームへと導かれた。サイドテーブルの灯りだけを点けたベッドに、ゆっくりと押し倒される。
 剥がされた服。羞恥によるものなのか、期待によるものなのか分からない熱。彼女の指が体をなぞり、胸の先をに柔らかく食む。
「ああっ」
 吐息混じりの声。自分のものとは思えない甘い響きに耳を塞ぎたくなったけれど、私の手は彼女の髪を掻き乱すことに夢中で言うことを聞いてくれそうになかった。
 だから、私は。自分の奏でる甘ったるい声や粘りのある水音の中、ただひたすらに彼女からの愛撫を、気を失うまで受け続けるしかなかった。


「お嬢さん」
 頬に冷たいものがあてがわれ、目を覚ます。一瞬ここがどこであるのか、彼女が誰であるのか分からなかったけれど、分からないままのほうが良かったと、思い出しては後悔した。甦る羞恥に、彼女の手を跳ね除けてベッドへと顔を埋める。
「今更恥ずかしがっても仕方がないだろう」
 私の髪を梳き、顎を掴んで顔を上げさせる。合わせた口から流し込まれたものに驚き身を起こすと、ミネラルウォーターの入ったボトルを手渡された。
「あれだけ叫べば、喉も渇くだろ」
 あれだけ、と言われ、また頬が熱くなるから。ボトルには口をつけずに、私はそれを自分の頬にあてた。心地の良い冷たさに、目を閉じる。
「さて、お嬢さん。決断の時だ」
 優しい声で残酷なことを言うと、彼女はベッドを軋ませた。片手をついて、私の顔を覗きこむ。ただ羽織っただけのシャツからは、白い胸が覗いている。数時間前、私はその柔らかさを知った。その温もりも、味も。
 彼女に導かれるままに行ったそれは、まるで夢のようだったけれど、確かな記憶と、自分の肌に残る痣が現実であったことを実感させる。
 出来ることならもう一度、もっと最中にも現実感を持たせてしてみたかった。けれどもう、それは無理なのかもしれない。彼女がここで下す決断の片方は、私を本当の意味で食べてしまうことなのだから。
「僕は君を、食べることにした」
 優しさを欠いた、冷たい声。見つめる目は光を反射しているわけでもないのに、いつからか黄金に輝いている。
 ああ、この人は本当に吸血鬼で。私はこのまま殺されてしまうんだわ。
 忘れていた恐怖に、体を震わせる。どうせ殺すのであればあの夢の中殺してくれればよかったのにと、勝手な怒りが込み上げてくる。それを言うなら、突然現れて私の行く末を決めてしまった彼女の方が勝手なのだけれど。
「何か、最後に望みはあるかな、お嬢さん」
「ねぇ。お嬢さんと呼ぶのは止めて。子ども扱いされているみたいで嫌だわ」
 恐怖と怒りの中、思わず反論をする。どうせ殺されるのであれば、もう彼女の機嫌を損ねても構わないと思った。少し前まで身を包んでいた熱が、一気に冷めてしまっている自分に気づく。
「僕から見たらお嬢さんは子供だ。こう見えても、僕は永久(とわ)に近い年月を生きている。それにお嬢さんは、快楽の味だって知らない」
「もう知ったわ」
「おっと。そうだったな」
 睨みつける私に、彼女は少しおどけたように言うと、そうか、と顎に手をあてた。そうして暫く目を伏せた後、再び私を見つめた。
「それじゃあ、みちる。君の、最後の望みは何かな」
 みちる。
 名前を呼ばれ、マイナスまで下がってしまったはずの熱が戻ってくる。どうして。
「どうして、名前を」
「忘れたのか。僕はみちるのコンサートを観ていたんだ」
「私の」
「そう。そこで君を、みちるを獲物にすることに決めた」
 私の首を撫でながら、唇を重ねてくる。舌を絡めると、行為の時には気づかなかった彼女の犬歯が、私のそれを刺激した。
 体を離し、彼女の口元を見つめる。唇は結ばれているのに、そこから僅かだけれど白く尖ったものが覗いていた。もう私を殺す準備は出来ているらしい。
「怖いかい」
 問われて気づく。恐怖は、いつの間にか消えていた。それは彼女にキスをされた時だったかもしれないし、名前を呼ばれた時だったかもしれない。どちらが切欠なのかは判然としなかったけれど、彼女からの愛情と呼ばれるものを感じていれば、例えそれが彼女にとっては無意識の言動だとしても、私の中の恐怖が薄らぐことは確かだった。
 やっぱり、私はこの人が好きなんだわ。
 自分の気持ちを再確認し、誰かを愛せる喜びと、その人ともう別れてしまわなければならない哀しみが同時に胸を突いてくる。
「貴女が名前を呼んでくれたら。私に触れていてくれたら、怖くはないわ」
「そう」
 呟いた彼女が、首を撫でていた手を肩へと滑らせる。光る瞳、剥き出された牙。肩に吐息がかかった時、私は大切なことに気が付いた。
「貴女の名前、知らないわ」
「え」
「例え最期でも、貴女の名前は知っておきたいの」
 駄目かしら。傾けていた体を戻した彼女に、問う。彼女は、少し驚いたような表情をしていたけれど、優しい微笑みを見せると、はるか、と呟いた。
「えっ」
「はるか。それが僕の名前だ。失敗したな。最初に名乗っておくべきだった。そうすれば、あの時、みちるに名前を呼んでもらえたかもしれないのに」
「だったら、また」
「けど、一度決めたことは変えないよ。僕は、みちるを、食べる」
 彼女の顔から笑みが消える。はるか、と呼んでみても最早表情が変わることは無かった。
 肩を掴む腕に力が込められ、爪が肌へと食い込んでいく。もしかしたら犬歯と同じように伸びているのかもしれないけれど、私にはそれを確認する術はなかった。
 出逢ってからどれだけ見つめたか知らない瞳が視界から消え、変わらず雨模様を映し出す窓が現れる。
「僕はみちるを食べる」
 耳元で言い聞かせるように。今度は優しい声で囁かれ、私は思わず頷いた。そんな私に彼女はクスリと笑い、それから、幻聴かと思うほどの小さな呟きを残した。
「――えっ」
 けれど、その意味に声を上げると同時に首筋に痛みが走り、そして。
 私の視界は、暗く、閉ざされた。


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