傷痕
「クロヌエ」
 不意に聞こえてきた名前に、オレは一瞬動きを止めてしまった。
 してやったり、とでも言うように彼が口元を歪めて笑う。
「アレは何だ?」
「……意地悪だな。あなたの言ったとおり、幻術ですよ」
「俺が言っているのは」
「黒鵺。妖狐蔵馬として盗賊をしていた時の相棒」
 読んでいた本を閉じ、椅子を回転させて振り返る。相変わらずにベッドに座っていると思ったのだが、彼はオレの手の届く範囲にいた。
「それだけか?」
 本当のことを話せ、とでもいうようにオレの首を掴み、軽く力を入れてくる。
「訊きたいこと。もっと明確にしてくれませんか?オレもこんな遠まわしな会話は疲れる」
 オレの首を締め付ける彼の手を掴み、引き寄せる。唇を重ねると、そのまま彼を膝の上へと座らせた。嫌がるかとも思ったが、予想に反して彼は素直に従った。
「分かっているのなら、俺に合わせずに話せ」
「今日のあなたは、随分と意地が悪い」
「……お前の真似をしているだけだ」
 首筋に噛み付きながら、彼が笑う。本当に、意地が悪いな。腹部でまだ痛む傷は体のものなのか、それとも心に染み付いたものなのか。どちらにしろ、まだ無茶は出来ない。
 それを分かってて、こんなこと……。
「手頃な妖怪を捕まえてするリスクを考えれば、って奴ですよ。結界のようなものなら、植物を使って作れたし」
 これで彼が納得するとは思わない。寧ろ、納得しないことをオレは望んでいた。
 確かに。今日の彼の意地の悪さは、オレの真似をしているだけなのかもしれないな。
「それだけか?」
 彼はまた、呟いた。今度はオレを見ずに。
 それだけなら、オレは幻術なんかに心を揺さぶられはしない。それくらい、分かってるでしょう?思いながらも、口にはせず。かわりに、俯いた彼の顔を上げさせるとそっと口付けた。
「……傷。早く治せ」
 触れるだけで離れようとするオレを追いかけ、深く舌を絡めた後で、彼はそう呟いた。オレの膝からおりてベッドに横たわる。
「治してやる、とは言ってくれないんですね」
 彼を追いかけ、その耳元に囁きかける。けれど。甘ったれるな、と振り払われてしまった。
 その手を掴み、口に含む。
「っ。大体。治すのはお前の専門だろう?」
「……よく、こんな傷舐めとけば治る、なんて言って。オレの治療を断るのは誰でしたっけ?」
 シャツをはだけ、唾液で光る彼の手を腹部に触れさせる。
「痛むか?」
「あなたなら、大丈夫です」
 それに、今はあなたの方が痛いはずだ。
 オレが手を離した後も、彼は腫れ物にでも触れるようにそっとオレの傷を撫でていた。自分では気づいていないだろうけれど、その目は酷く頼りなく。
 思っているのは、黒鵺のことなのか。それとも自分の過去の行動なのか。その両方なのかもしれないが。彼のそんな目に、オレは自分でさせたことなのに今更辛くなって。彼の手を離させた。依然として、組み敷いたままではいたけれど。
「蔵馬」
「あなたになら、大丈夫だから」
 黒鵺を助けられなかった。その事実は変わらない。途切れた想いは終着地点を見つけられず、未だ彷徨い続けてる。それも否めない。
 でも。
「あなたなら……」
 きっと大丈夫。
 想いが彷徨い続けていても、それ以上の想いがあれば。忘れることは出来なくても。総てを包み込める。
 だから。
「っめろ。お前の。……傷に、障る」
「それでも、構わない。飛影なら」
 好きだ、と想う。心から守りたいと。
 例え、あの日のような状況に陥ったとしても。今度は、逃げない。オレを生かすことが例え彼の意思であったとしても。オレは。それ以上に、彼に生きていて欲しいと思うし。それに、何より。
「……やっぱり、痛むかな」
 不安げに見つめる彼に苦笑すると、オレは隣に転がった。腹部の傷。既に塞がっている方に触れる。
 裏切り者、なんて。あの言葉。嬉しかったんだ、本当に。これはオレだけの秘密だけれど。
「蔵馬……」
 天井を見上げたままオレを呼び、傷に手を伸ばしてくる。それが痛みに触れる前に、オレは彼の手をとり、指を絡めた。
 失いたくない。黒鵺を失ったときにも同じことを思ったけれど、それは失った後だから。でも、今は。多分、彼を失ったら、オレは……。
 そのことを考えるだけでも、こんなにも不安になるのに。
「たまには、こうして眠るのも」
 繋いだ手を折り曲げ、彼の手の甲に口付ける。
 視線を向けると、彼もオレを見ていたようで。馬鹿馬鹿しい、と呟きながらも、硬く手を握り返した。
 結局、オレの方が随分と意地悪なことをしてしまったな。耳まで赤くして天井を再び見上げた彼に、オレは気づかれないよう苦笑した。
 感じていた傷の痛みは、殆ど表面的なものでしかなくなっていたことに、今更、気づいた。




黒鵺を好き。
でもそれ以上に飛影が好き。
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