冷たい花
 彼女は蝶を眺めていた。咲き始めた花に戯れる蝶を。ただ一人、黙って微笑みを浮かべて。
「花、好きですか?」
 不意に背後から声がした。途端、見える範囲で野草たちが花を咲かせ始めた。彼の妖気に応えるように。
「……蔵馬さん」
 振り返り、彼女は彼の名前を呼んだ。他の者が見たら意外だと思う組み合わせだろうが、彼女は驚くことは無かった。
 いつか、二人きりで話をする日が来るだろうとずっと思っていたからだ。それが今日であることは予想していなかったが。
「好きですか?」
「え?」
「だから、花。とても楽しそうでしたから。それとも、見ていたのは蝶でしたか?」
 微笑いながら彼は近づくと、手を伸ばした。指先に黄色い蝶が止まる。
「両方です。好きですよ、花。……蔵馬さん、ですよね?花たちが咲き出したのは」
「ええ、まぁ。これでも一応、植物を支配する妖怪ですから」
 軽く指先を振って言う。すると彼の指から離れた蝶は、彼女の元へと飛び、そしてその手に止まった。それまで笑顔だった彼女が、少し表情を崩す。
「蔵馬さんは植物だけじゃなくて蝶も操れるんですか?」
「まさか。その蝶が君の手に止まったのは偶然ですよ。もっとも、俺の手に止まったのは偶然じゃないですけど」
 そう言うと、彼は何処からか薔薇を取り出した。彼女の元に止まっていた蝶が、再び彼の方へと飛んでゆく。しかし止まったのは彼の指先ではなく、薔薇の方だった。
「ずるしたんですね」
「まぁ、そう言ったところです」
「でも、種があったとしても私は蔵馬さんが羨ましいです。私は下手に触れると花も蝶も死なせてしまいますから」
 落ち込んだ声で言うと、彼女は目の前の花に触れた。急速に、花が萎れてゆく。
「折角幻海さんに妖気の制御の仕方を教えて頂いたのに、油断するとすぐこれですから」
「氷の妖気、か」
 苦笑する彼女に彼は口を歪めた笑みを返すと、萎れた花を手折った。
「オレはあなたが羨ましいですよ。見合った能力。いいじゃないですか。オレはこんなですから」
 彼女の前に萎れた花、いや、既に息を吹き返した花を差し出す。
「優しいヒトだと思わる」
 差し出された花を笑顔で受け取った彼女だが、小さく声を漏らすと、その花を落とした。
「本当は、冷たいのに」
 指先に滲む血を眺めている彼女の上から、冷たい声が振ってくる。漂う妖気に彼女が顔を上げると、彼は優しく微笑った。優しいのに、冷たく。
「まぁ、相手を騙す為のものだと思えば、オレに相応しいのかもしれませんけど」
 少女の手を掴み、指先を口に含む。
「あのっ。……蔵馬、さん?」
「ああ、そうか。あなたには治癒能力があったんでしたね」
 唇を離す彼は、そういうとまた優しく微笑った。けれど今度はその中に冷たさは見られなかった。彼女は内心で胸を撫で下ろす。流石にこの距離では間に合わないのだから。
「綺麗な花には棘がある。無闇に手折ったり触れたりはしないでくださいね。棘が刺さると危ないですから」
「……はい」
 心配しているのは自分ではなく、自分の妖気に当てられて枯れてゆく植物達だということに気付きながらも、彼女は笑顔で頷いた。
 彼が、くすりと笑う。
「やっぱりあなたが羨ましい」
「――え?」
「感情を凍てつかせる。氷の妖気を纏うに相応しい」
 そこまで言うと、彼は彼女の耳元に唇を寄せた。
「気付いてるでしょう?あなたの背後の視線に。一体オレとあなたのどっちを追って辿りついたんでしょうね?……でも、この距離ならオレの方が確実に早い」
 彼女の細い首に手を触れると、冷たい目で彼女の背後に広がる景色を睨んだ。
「あなたのお兄さんも、炎を纏うに相応しい性格をしていますよね。すぐに感情的になる」
「蔵馬さん、何故――」
「安心して。幽助から聞いたんです」
 顔と手を離し、にっこりと微笑う。その笑顔に、彼女も笑顔で返した。
「綺麗な花には棘がある。蔵馬さんも、相応しいじゃないですか」
「……言ってくれるね」
「話はそれだけですか?」
「いえ、別に話があって来たわけじゃないので」
 苦い顔をして言う彼に、彼女はここに来た理由を知った。思わず、背後を振り返る。
「どっち、なんて。嘘だったんですね」
「まぁ、オレにはこんな遠回しなことはしませんから」
「……それでも、許せないんですね」
「それはあなたも同じでしょう?」
「ええ。そうです。私は蔵馬さんが嫌いです」
 氷女というに相応しいほど冷たい目で、睨む。
「だからって植物に当たるのは止めてくれませんか?彼らには罪は無い」
「でしたら私が当たらなくて済むようにしてください」
「……それは、オレだけじゃどうにも出来ないことですから」
 おどけたように肩を竦めながら言う。その仕草に、彼女の目は温かさを取り戻した。それを見止めた彼が、息を吸い込む。
「さて。オレはそろそろ行きますね。ああ、ここ一体に少し強めの妖気を送っておきましたから。あなたが触れても、その気にならない限り枯れないと思いますから」
「え?」
 思いがけない彼の言葉に、彼女は戸惑った。彼の唇が、また耳元に寄せられる。
「オレはこれでも、あなたのことを大切にしたいと思ってるんですよ。なんといっても、オレの大切なヒトの、大切な妹君ですから」
「……蔵馬さん」
「それじゃあ。オレの送った妖気の効力が切れる頃に、また来ます」
 余裕の笑みとも取れる微笑みを見せると、彼はそのまま彼女が背後に感じてる視線を遡るように去っていった。
 残された彼女は、その場にしゃがむと、目の前で綺麗に咲き誇る花を一つ手折った。
「ごめんなさい。それでも、私はどうしてもあなたが嫌いです」
 そう呟いた彼女の目の前では、凍てついた花が微かな音を立てて粉々に砕けていた。
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