「……卒業、おめでとうっス」
受け取ってくれるかどうか不安で。俺は俯いたままで花を差し出した。何秒もしないで、手が軽くなる。
…受け取ってくれた。
俺は嬉しくなって顔を上げた。
「ありがと。」
花と俺を交互に見つめ、先輩は微笑った。
今日で先輩とはお別れになる。と言っても、青学は高校テニスも強いので、テニスを続ける先輩はそのまま持ち上がり。だから、会おうと思えば、いつでも会える。とはいえ。先輩が部活を引退したというだけでも、俺はすごく寂しかったのに。もう、校内で偶然顔を合わすってこともなくなっちゃうなんて…。あーあ。考えただけでも溜息が出る。
「…どうしたの?越前くん」
先輩の持っている花を見つめたままの俺に、先輩は心配そうに声をかけた。俺は、何でもない、と首を振ると、先輩の腕にしがみついた。俺の行動を不思議そうに見ていた先輩だったけど、優しく微笑うと俺の頭を優しく撫でた。
「……先輩は、第二ボタンとか、誰かにあげる予定なんスか?」
しがみつく先輩の右腕に頬を摺り寄せながら、俺は訊いた。先輩はキョトンとした顔で暫く俺を見ていたけど、すぐに声を上げて笑い出した。
「…何が可笑しいんスか?」
理由もなく突然笑われて、俺はわざとらしく頬を膨らませて見せた。それを見た先輩は、いっそう可笑しそうに笑う。
「だって、いまどき第二ボタンなんて…流行んないよ」
笑いのツボに入ったらしい。先輩は空いている左手で目じりに溜まった涙を拭き取った。
何も、そこまで笑わなくても。……俺、本気なのに。
「あーあ。可笑しかった。ごめんね。笑ったりなんかして」
「……別に。いいっスよ。先輩の正体は笑い袋だって、ちゃんと解かってるっスから」
不貞腐れたように言うと、先輩は、ごめんごめん、と俺の頭を軽く叩いた。こんなやりとりが出来るのも、もうおしまいなのかな。
「でも。どうしたの?いきなり第二ボタンなんて…」
いきなりの先輩の言葉に、俺はドキリとした。
ったく、なんなんだよ一体。散々笑ったんだから、そのまま流せっつーの。
「えーっと。それはっスね…」
俺は俯くと、どうやってこの話題から切り抜けようか、色々考えた。
って、ここでうろたえてどうすんだよ。ここで言わなきゃ、もう、チャンスはないのに…。
俺は深呼吸をすると、先輩の腕から手を離した。
「越前くん?」
コクリと喉がなる。
「不二先輩。あの、俺…」
「あ。」
「……え?」
突然、声を上げた先輩に驚いて、俺は顔を上げた。先輩の視線を追って、振り返る。そこには…。
「手塚っ!」
視線の相手に笑みを向けると、先輩はそいつの方へと歩いていった。そいつの腕を、さっきの俺と先輩みたいに掴み、嬉しそうに微笑う。そのまま、そいつを引っ張るようにして俺のところに戻ってきた。
「手塚も持ち上がりだから。越前くんがテニスを続けてれば、いつかまた、二人の試合が見れるよね」
楽しそうに、嬉しそうに先輩は微笑った。隣に居る奴は、少しだけ、不満そうな顔をしている。
「……そうっスね。とりあえず、ゴソツギョウオメデトウゴザイマス」
先輩から眼をそらし、隣りの奴へありったけの怒りを込めた言葉を贈った。
…そうだよ。この人さえ現れなければ、先輩にちゃんと気持ちを伝えられたのに。いつもいつも、ムカつくくらいいいタイミングで俺の前に現れる…。
「ああ。有難う」
俺の気持ちに気づいたのか、こいつは俺を見下すようにして言った。身長差があるんだから、見下ろす形になるのはあたりまえなんだけど。その眼には、明らかに、勝利の文字が浮かんでる。
…悔しい。俺と先輩との距離が出来たのとは逆に、こいつと不二先輩の距離は近まるに違いない。というより、もともとこの二人は付き合ってるわけだから、俺の入る隙なんてなかったのかもしれないけど。でも。俺だって諦めてるわけじゃない。欲しいものは絶対に手に入れてやる。だから、余計、悔しい。
「ああ。そうだ。越前くん、さっき、何か言いかけたよね?あれ、何?」
腕を絡ませたままで、先輩は微笑うと俺に言った。
解かってんの?この人は。その笑顔が何よりも俺を傷つけてるってこと。
「……いえ。何でもないっス。もういいっスよ。」
その笑顔を見るのが辛くて。俺は地面へと視線を落とした。視界に入るのは寄り添っている二つの影。
「そう?なんか、切羽詰ってたような感じだったけど…」
もう、いいよ。早くどっかへ言っちゃえよ。
「不二。オレはそろそろ向こうに戻るぞ」
その声と同時に、俺の視界から、一つの影が消える。
「待ってよ。僕も行くから」
それを追うようにして、もう一つの影も俺の視界から離れていく。
「………あ。」
その影を留めさせようと、顔を上げた。でも。
「あれ?」
視線の先にはあいつの後ろ姿だけで、先輩の後ろ姿はなかった。
どこ、行ったんだろう?
「だーれ捜してんの?」
急に、後ろから抱きしめられて、身体が震えた。その温もりに、胸が痛む。
「…不二先輩。」
「ねぇ、僕に何か言いたかったことがあるんでしょ?」
囁くと、先輩は俺を抱きしめる腕に力を込めた。
「べ、別に。何もないっスよ」
暫くこうしていたい、と思ったがこのままだと泣いてちゃいそうな気がして。俺は何とか、先輩の腕を解いた。
「本当に?」
「…本当っス」
「………そう。なら、いいんだけど」
俺を見て、クスクスと微笑うと、先輩は頭をクシャクシャと撫でた。やばい。俺、本気で泣きそうだ。
「じゃあ、僕、もう行くから」
「…はい」
頷く俺に微笑うと、先輩は背を向けて歩き出した。が、ある程度いった所で、何かを思ったのか、立ち止まると、俺の方へ走って戻ってきた。
「そうそう。忘れるとこだった」
先輩は急いで俺の手を取ると、強く握った。
「じゃ、ね。たまには家に遊びに来てね」
捲くし立てるように言うと、先輩はそのままあいつの背を追って、走っていった。
「………。」
先輩の去っていく後ろ姿を見たくなくて、俺は俯いた。視界に入るのは、自分の手。さっきまで、先輩が握っていた、先輩の温もりの微かに残る手。俺は、じっとその手を見つめると、ゆっくりと手を開いた。
「何、これ…?」
掌に乗っているのは、小さなボタン。
「あ……。」
そう言えば。俺の所に戻ってきたとき、先輩の学ランの第二ボタンは…。
「俺も、まだまだだね」
こんな優しさに、気づかなかったなんて。
少しだけ。期待してもいいのかな?
俺は腕で目を擦ると、先輩に背を向けた。掌でボタンを遊ばせながら、ゆっくりと桜の下を歩く。
「……愛してる、か」
宙を仰ぎ呟くと、掌に乗ってる小さなボタンに唇を落とした。いつかその想いが先輩に伝わればいい。そして、いつかその言葉が先輩の口から聴ければいい。そう願って。
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