特に約束はしていないが、昼休みは必ず逢う事になっている。奴のお気に入りの場所。オレたちの秘密の場所。屋上で。
授業が長引いた。5分の遅刻。オレは息を切らせ、階段を駆ける。
約束をしていないとはいえ、遅刻は厳禁。奴がまた妙な気を起こす危険がある。以前、オレが15分も遅れてしまったときなんかは、屋上から飛び降りようとしていた。オレに厭きられたのだと勘違いしたらしい。被害妄想もいい所だが、それだけ想われているのだと考えると、あまり強く叱ることは出来ない。だったら、もう少しくらい信頼してくれてもいいと思うのだが。
「っ不二!」
屋上の扉を開けたオレは、目の前に飛び込んできた光景に驚いた。幻覚かと思い、眼を何度か擦る。
「あ。手塚」
けれど、それは幻などではなく。当の本人はオレを見つけて安堵したように微笑った。
「遅かったね」
オレの元へと歩きながら、手に持っていた銀をしまう。
「上、行こうよ。今日は早く起きたから君の分のお弁当も作ってきたんだ」
呆然としているオレの手を捕ると、不二は梯子を上ろうとした。生温かいものが奴の腕からオレの手へと伝わる。
「ち、ちょっと待て」
オレは、慌ててその手を解くと、扉に手をかけた。
「え?何?」
「手を…洗ってくるのを忘れた。すぐ戻る。先に弁当でも食べて待っていろ」
「ちょっ、手塚!?」
言うと、オレは不二を振り返ることなく、階段を降りた。大丈夫だ。すぐ戻るとも待っていろとも言ってある。とりあえず、これ以上妙な気を起こすことはないだろう。
オレは試合中でも走ったことはないんじゃないかと自分でも思うくらいの速さで保健室へと向かった。
昼食中なのか、保健医はいなかった。救急箱を捜す。必要なものを取り出すのももどかしくて、オレは救急箱を抱えると、再び走り出した。途中、保健医とすれ違ったが、無視をした。構っている暇はない。
もしかしたらこれは盗みになるのではないかと、どうでもいいような考えが、一瞬、頭を過ぎった。
「不二っ!」
扉を開け、急いで梯子を上る。
「………不二?」
けれど、そこに不二の姿はなく、手付かずの弁当だけが残っていた。
……もしかして、妙な気を起こしたのだろうか?
厭な考えが頭を支配し始める。オレは時計を見た。未だ、2分くらいしか経っていない。
と。
「手塚?」
背後から気の抜けた声がして、オレは振り返った。梯子を上りかけ顔半分を出した不二は、早かったね、と微笑う。
「不二…一体、どこへ?」
そんな状態で。
「うん。飲み物。買ってくるの忘れちゃったからさ。お茶でいいでしょ?」
「あ、ああ」
投げられた紙パックを受け取ると、オレは気が抜けたようにその場に座り込んだ。
「どうしたの?もしかして、僕が飛び降りたとでも思った?」
隣に座り、クスリと微笑う不二に、オレは溜息をついた。
「お前には、前科があるからな」
不二が弁当を広げる。オレは救急箱を取り出した。
「だって、手塚がすぐ戻るから待ってろって言ったんじゃない。もうちょっと、信頼して欲しいな、僕のこと」
不二がわざとらしく溜息を吐く。
「……信頼していないのは、お前だろう?ほら、手、見せろ」
呟くと、オレは半ば強引に不二の左手を捕った。
「っつ。………ごめん」
信頼していないという言葉にか、手の傷にか、それともその両方にか。不二は顔を歪めると、小さく頭を下げた。
オレは何も言わずに不二の手首から流れる緋を見つめた。
血だらけの手。本当にこんな状態で、買い物に行っていたのだろうか?
オレは消毒液と脱脂綿を取り出すと、傷口を洗った。痛みに不二が小さく声を漏らす。
「我慢しろ。自業自得だ」
あるだけの脱脂綿を緋く染めると、白い肌が表れた。未だ血の滲んでくる傷の隣に、まだ新しい傷痕。
溜息を吐き、包帯を取り出す。
「……不二。」
「ん?」
「お前、早く起きたんじゃなくて、あまり眠れなかったんだろう?」
包帯を巻きながらなので、不二の顔は見れなかったが、微かに揺れた身体が真実を物語っている。
「薬、効かなくってさ」
「だからといって、自分の腕を傷つけていい理由にはならないぞ」
「こうすると、よく眠れるんだ」
「そのまま永眠したらどうするつもりだ」
包帯を巻き終え、手を離した。不二は、ありがと、とオレに呟くと、包帯の巻かれた自分の腕を見つめた。
「眠るように死ねたら幸せだろうね」
「なっ…」
不二の呟きに、オレは思わず持っていたテーピングを落としてしまった。そんなオレに歪んだ笑みをみせると、不二は転がってくテーピングを拾った。オレの手にしっかりと握らせる。
「……なんてね。冗談。大丈夫だよ。そんなに深くは切ってないし、水に浸けなければそのうち血は固まる」
「そういう問題じゃないだろう?」
怒り口調で言うオレに、不二は微笑うと箸を渡してきた。弁当を食えということらしい。
言いたい事は山ほどあったが、聞く気のないときに言っても無駄だと思い、とりあえずオレ達は遅めの昼食を取ることにした。
昼食を終えると、不二はオレの膝の上に横になった。オレは気づかれないように腕時計を見る。本鈴まで、あと3分もない。このままだと、多分、5時間目はサボることになるだろう。
「血が流れるのを見てるとね、なんか、安心するんだ」
包帯の巻かれた腕を見ながら、ポツリと呟いた。
「何故だ?」
腕を自分の顔から少しずらしオレと眼を合わせると、不二は微笑った。
「温かいんだ。僕の血。本当に、温かいんだよ?生きてるんだなぁ、って。こんな僕でも、ちゃんと生きてるんだなって。そう感じる事が出来るんだ」
「……………。」
哀しみに満ちた眼でけれど嬉しそうに言う不二に、オレはなんて言葉を返せばいいのか解からず、ただ黙ってその眼を見つめるしかなかった。
不二は何故か自分に劣等感を感じている。それは解かっている。けれど、それだけだ。原因が解からないから、それを取り除いてやる事は出来ない。こんなに想われて、こんなに想っているのにも関わらず。
……オレは、不二に何もしてやれないのだろうか?
不図、温かい感触が頬を包んだ。
「手塚、どうしたの?」
視線を落とすと、心配そうな眼で不二がオレを見つめていた。こんな…顔をさせたいわけじゃないんだ。
「何でもない」
呟くと、オレは自分の頬に当てられた不二の両手を捕った。不二が、小さく首を振る。
「何でもわけないじゃない。ズルイよ、手塚は。そうやって独りで考えて。僕はここにいるのに」
訴えるような潤んだ眼。狡いのはお互い様だと思うのだが。この眼には、勝てない。どうしても。
溜息、ひとつ。
「お前の事を考えていたんだ。」
「僕の事?」
「そうだ」
指を絡めるようにして、その手を強く握り締めた。遠くで、本鈴の音が聞こえた。
「なぁ、不二。オレでは、駄目なのか?」
「え?」
オレは絡めた指を解くと、自分の口元まで持ち上げた。両手に、ゆっくりと唇を落とす。体温が、伝わるように。
「温もりを感じたいなら……オレが」
オレで感じればいい。オレが与えてやるから。
「……手塚。」
呟くと、不二はオレの首に腕を回した。身体を起こし、唇を重ねる。
「…ふっ、じ」
唇が離され、オレは小さな深呼吸を繰り返した。荒れた息を整える。
「手塚」
突然、不二が強く抱きしめてきた。驚いたオレは、僅かに咽てしまった。
「そう、だね。」
耳元で囁くと、不二は身体を離した。オレを見つめ、優しく微笑う。どうやら少しは気が楽になってくれたらしい。眼の色は、天の色のように澄んだ蒼をしていた。
やっとの事で持ち直したオレも、笑顔で返した。
「……手塚。5時間目、始まっちゃったね。どうする?行く?」
「残りはいい。今は、お前と一緒に居たい」
言うと、今度は自分から触れるだけのキスをした。唖然とした顔で不二がオレを見る。
「そうだ」
呟き、不二のようにクスリと微笑って見せると、オレは不二の制服に手をあてた。
「ち、ちょっと、手塚!?」
それを探り当て、掴むと、狼狽える不二から身体を離した。
「このナイフはオレが預かっておく」
緋く鈍い光を放つそれを天にかざす。
「……手塚。」
不二はオレの手にある赤く染まったナイフとオレを交互に見つめた。オレは不二の視線を無視してそのナイフを制服のポケットにねじ込むと、不二の首に腕を回した。ゆっくりと身体を後ろに倒す。見上げると、不二の綺麗な蒼い眼に映ったオレと眼が合った。
「不二。死にたくなったら、オレあのナイフでまずはオレを殺せ」
「なっ…」
「お前のいない世界なんて、オレには何の意味も持たないからな。お前が死ぬなら、オレも死ぬ。だから、死にたいなら、まずオレを殺せ」
「…そんなの、出来ないよ。僕が手塚を殺すなんて…そんなこと」
「だったら、お前が死ななければいい。……違うか?」
「………うん。そう、だね。」
不二は小さく頷くと、触れるだけの口付けをした。額を重ね、見詰め合う。
「ありがとう、手塚。」
不二の笑顔に、オレは静かに目を閉じた。頬に、生温かい雨を感じた。