「最近、調子が悪いみたいだけど。どうかしたのか?」
部活の休憩時間。顔を洗っている僕に大石が話しかけてきた。
「……別に」
顔を拭きながら答える。イライラする。早く消えて欲しい。
「顔色も悪いみたいだけど」
なのに。僕のそんな気持ちをお構いなしに、大石は顔を覗き込んでくると心配そうな顔をして見せた。上っ面ばかりのくせに。
「大丈夫。なんでもないよ」
お前にだけは心配されたくないんだ。
「だが…」
「なんでもないって言ってるだろ!」
思わず、声が荒くなる。
「………不二?」
「っごめん。僕は大丈夫だから。放って置いてくれないかな」
無理やりに笑顔を作ると、早口で言った。僕の怒鳴り声に気圧されてか、大石は何か言いたそうな顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。
「………ごめん」
部室へ向かう僕の背に、大石の弱々しい声が聞こえてきた。
「……何で、僕じゃなかったのかな」
夜。僕は携帯を天井に掲げ、ぼんやりと眺めていた。
「鳴らない電話、か」
諦めの溜息と共に電源を切る。彼が旅立つ前に携帯番号を教えた。けれど、あれから二週間、一度もかかってこない。僕が彼と連絡を取る手段はこれしかないのに…。
僕は携帯を投げ出すと、部屋を出た。一人で眠るには、この部屋は広すぎる。
彼がいなくなってから、僕はまともな睡眠をとっていなかった。別に毎日一緒だったというわけではないけれど。精神的なものもあって、彼の温もりの感じられないベッドでは眠りにつけなかった。疲れていれば少しくらいは眠れるのだろうけれど。彼のいない部活は退屈で、疲れるほどまでのめり込めないから。
夜のない街で、誰かと眠る。別に相手は男でも女でも構わない。今は独りを感じたくない。
彼が何故僕を選ばなかったのか、解らない。大石に越前。彼が選んだのはこの二人。その中に、僕はいなかった。問い詰めようにも、彼との連絡手段は、ない。唯一の繋がりは充電の減らないこの役立たずな電話だけ。でも、これも。彼からの連絡がなければ、意味を持たない。だって僕は、彼の番号を知らない。
大石から訊く?出来るわけないじゃないか、そんなこと。あいつの助けを借りるのだけは死んでも嫌だ。それに、教えてもいない相手から電話がかかってきても、彼が不信がるだけだ。
今更になって思う。彼と僕との関係。
僕たちは恋人同士じゃなかったのだろうか?
「僕が欲しいのは、手塚、キミだけなのに」
誰もいない屋上は淋しい。それでも今まで平気だったのは、必ず彼がくるってわかってたからなんだって、今更気づかされる。
手つかずの弁当を枕にして、横になる。
…頭、痛い。
睡眠も食事もまともに取っていないんだから、当たり前か。とはいえ、僕はこれくらいで負けるほどのテニスの腕じゃないから、そっちの方は問題ないんだけど。
「それがいけないのかな」
誰も僕の心配なんかしてくれない。手塚がいなくても平気なんだって思ってる。そんなこと、全然ないのに。
唯一、気づいてくれたのが大石だけなんて。なんて皮肉。
怒ればよかったのかな。自分を選ばなかったことを。僕にはキミしかいないんだって、ハッキリと意思表示しておけば。こうはならなかったのかもしれない。
でも。彼があまりにも純粋で真っ直ぐだから。僕の想いで穢したくはなかった。
多くを望まず、ただ、傍にいてくれるだけ。それだけでも、充分、僕は幸せだと思えたから。
今になって考えると、彼の気持ちがよく解らなくなる。
好きだ、といってくれたことはあったけど。それは数えるほどしかなくて。しかも、僕が強要したときだけ。
僕も時々ものすごく不安になるときにしか聞かなかったし、そういうとき以外、僕も彼に好きだとは言わなかった。傍にいるだけで、ちゃんと通じ合ってるって思ってたから。
でも、実際はそうじゃなかったのかもしれない。彼は僕に仕方がなく付き合ってくれてたのかもしれない。
それとも。僕が独りでも生きていけると思っているのだろうか?その他大勢がそう思っているように。
どちらにしても。マイナスだよ。
やっぱり、怒ればよかった。別れるときも、笑顔なんかじゃなく、泣いて縋ればよかった。今更、過去を悔いても仕方がないけど。
「やっぱり。独りでこの部屋にいるのは、辛いなぁ」
かったるかったのでそのあとの授業はサボり、そのまま部活もサボった。荷物を置くために家に寄った途端、振り出した雨によって思わぬ足止めを食らう。今はもう、雨はあがっているのだから、出かけることも出来るんだけど。一度削がれてしまった気持ちを持ち直すほどの気力は、ない。
彼がいないことが、これほどまでダメージになっているとは。
ベッドに横になっても、眠れるわけはなく。僕はずっと、白い天井を見続けていた。今は夕暮れ時で、窓から差し込んでくる陽の光で天井は朱に染まっているけれど。
手塚がいなくなってから、授業や部活をサボったのは初めてで。少しだけ期待をしていた。僕の様子を心配した大石が、彼に連絡を取ってくれるんじゃないか、と。そして僕を心配して、彼が電話の一つでもよこしてくれるんじゃないかと。
大石の手を借りるのは癪だけど、頼み込んだわけじゃなくこっちが勝手に利用しているだけだと考えれば、なんてことはない。人の良い馬鹿者。ああいうのを見てると、無性に腹が立つ。英二が気に入ってるっていうから、フツーに接してはいるけれど。
なんて。嫌いな奴のことを考えるなんて、らしくない。嫌なら接しなければいいだけだ。そんなものに残り僅かな気力を注ぐくらいなら、別のことを考えたほうが良い。
溜息をついて、思いっきり伸びをする。と、手に当たる、硬いモノ。見ると、写真たてだった。上半身を起こし、それを手に取る。写真を撮られることを嫌う彼に無理を言って撮った写真。プレー中の、僕が一番好きな彼の姿。
「……っ」
不意に、涙が零れた。それは写真たての上に落ちるほど大粒で。
自分でも、どうして良いかわからなかった。どんなに淋しくても、彼と別れてから泣いたことなんて一度もなかったのに。
それほどまでのところに、僕は来ているってことなのかな。
「淋しいよ、手塚」
写真を抱えるようにしてうずくまる。と、堰を切ったように涙が溢れてきた。誰もいない。そのことが僕の感情を開放させる。
「キミ以外、何もいらないのに…」
嗚咽の混ざった声で呟く。
と、遠くで携帯が鳴り響いて…。